ふとんのなかから

びまん性大細胞型B細胞リンパ腫にかかったあとだらだらしている人のブログ

4月5日 なかなか前進できず

楽しい夢からみじめな現実に引き戻されて05:30起床。今日はガリウムシンチ撮影の日で、腸の中をきれいにするため昨日のうちに下剤を飲んでいて、そのため少し早く起きました。3月31日の夜から食べ物を食べていないし何も出ないかな、いいかげんに血も止まったかなと期待しましたがやっぱり便器は赤黒くなりました…。下剤で腸が活性化されてしまったので今日は一日中お腹が痛かった…(6/10くらいの痛みが一向におさまらない)。夜になってまた「点滴の痛み止め」をオーダーしたところ「ソセゴン」という鎮痛剤というか向精神薬が来ました。相変わらず副作用は出ますがこの前のよりはましなのでよしとします。痛みは2/10くらいに軽減…これでもだいぶ気分が違います。


ガリウムシンチの撮影は40分くらい微動だにせず横になった姿勢を保ち続けるのがきつかった…。お腹の痛みが来たらやばいなぁと思ってましたがなんとかしのげてよかったです。今見つかってる患部以外に腫瘍がないといいんですけどね。あったらステージIIIにはなるのかな。リンパ腫の場合はIVでも「末期」とはいいません。IIIとIVを合わせて「進行期」といいます。IとIIは「限局期」。なんでそういうのかは不明…。ところで芸人のはんにゃ川島も腎臓癌だったそうですね。芸人、しかも胃癌の宮迫とは全然違う”若手”枠の芸人のポジションで再発を防ぎながらあと4年過ごすのはかなりの大事業だと思いますが、頑張って欲しいと思います…。以下テキストファイルの記録より引用再編。

消化器内科の医師が来た。昨日の血液検査の結果ヘモグロビン値9.9で、輸血をするほどではないが貧血(3月30日時点では13あった)。手術は来週か、さ来週。点滴から中心静脈カテーテル(たぶん首)に切り替えて栄養状態を保持する。今週後半に注腸検査(バリウム検査)をする予定。

入院以来ずっと頭がふらついて調子悪いなぁと思っていたら貧血だったようです。大腸の状態を保存するため食事なしの点滴生活が続いてるんですが、さすがに応急処置的な栄養点滴をあと二週間くらい続けるのは無理があるということで、首の静脈に針を刺してちゃんとした栄養を流す方式に変えるそうです。怖い…。あと腸にバリウムを流し込み圧力をかけることで重なってる腸が元の状態に戻ることを期待する検査もするそうです。

外科の医師と話ができた。体が、腫瘍を便と認識して肛門の方へ押すと腸重積になってしまう。現在は腸のはまりこみ方が浅いか、出たり入ったりしている。注腸検査で腸重積が戻れば腹腔鏡手術、お腹に少し穴が開く程度、腸を除去する長さも短い。腸が戻らなければ開腹手術、傷は20cm、腸を大幅に除去する。回復には一週間〜10日かかる。手術日程は未定。

というわけでバリウムで腸が元の位置に戻るかどうかがなかなかの分かれ道になってしまいました。たぶん戻らないだろうな…。でも何より外科の方で日程をはっきりしてもらえなかったのが一番きついです。基本的には一ヶ月先まで手術室の空きがないそうですが、少しも待たせていい病状ではないのは分かってるはずなので、どこか空きを見つけて一刻も早くやってもらうしかないんですが…。

4月4日 血液内科の医師と話をする

昨日隣のベッドに介護老人が移されてきて、夜中の声や介護作業音に困り「部屋変えないとだめかなぁ」と思いましたが、なぜか今日になってまたどこかへ移動して行きました(おそらくナースステーションに近い部屋に行った)。


今日も両親が来ましたが、だんだんうんざりしてきています。昨日、外科の医師を前にして自分たちが決めた火曜日の話し合いの時刻も覚えていないし(父は自分が14:00でと言ったのに話し合いがあることすら忘れていた)、私の言うこともとにかく否定するし(何度説明しても前倒しで平行して準備していこうという姿勢を理解しない)、といって元気づけてくれるわけでもなく励ましてくれるわけでもなく、ただただ病人の私以上に暗い顔をして、こちらから話しかけないかぎり何十分も黙ってぶすっとしているだけ。今日はいろいろ説明するのも疲れて嫌になってきたので「もう自分主導で全部やるからいい、このままでは死んでしまう」と相手をするのもやめてしまいました。なんで病人の私がいちいち気を使って、会話が成立するように話しかけないといけないのか分かりません。彼らのような精神的に普通ではない人に人間的な役割を期待するのがそもそも間違っているんでしょうが、あまりにも寂しいです…。私はただ家族として協力して欲しいだけなんですが…。母は人格依存をしないと生きられないタイプなので、このまま父(平気で嘘をつくタイプ)と二人だけの日々が続くと偏った考えにこり固まって、また私を追い詰めるだけの人に戻ってしまうのかなぁとも思います。


夕方になって血液内科の医師が来て、先週投げておいた質問の回答を得られました。一般論として、という体では言ってましたが、やはり何週間もかかるセカンドオピニオンや転院を待っている間に手遅れになってしまうことはあるようで、私の場合はまず腸の手術をしてからということもあり、このままこの病院の医師を信頼するしか道はないようです。私の年齢の患者の治療経験や腸のリンパ腫の治療経験もあり「助かった人もいればそうでない人もいる」とはっきり答えてくれる人でもあるので、命を預ける価値はあるのかなぁと思います。聞いておきたかった「何がどうなって亡くなるのか」という質問にも答えてくれました。悪性リンパ腫は再発した部分の臓器が悪くなって亡くなったり、治療中の免疫力が下がった状態で病気になり亡くなるそうです。グロテスクなやりとりと思う人もいるかもしれませんが、こういう具体的な情報はネット上になかったので、逆にありがたいことでした。

4月3日 痛み止めの副作用で苦しむ

昨日の消灯時間にいつもの胃痛的腹痛が始まったのでさっそく「点滴の痛み止め」をオーダーしたら、なんか脈拍が早くなって目が回るような…でもまぁいいかとりあえず眠らなくてはと眠り、夜中に看護師が来た時ちょうど目が覚めたので「ずいぶん強い薬ですね」と言ってみたら「向精神薬なんです」「金庫から出さないといけないんですよ」おいおいそんな凄いのじゃなくていいんだよ…。朝になり一応8時間くらい眠ったはずなのに妙に気分が悪い…トイレに行ったら途端にめまいと吐き気とふるえが…。看護師に「これこれの副作用が出た」と言ったら「副作用というか、体質に合わないのかもしれませんね」という微妙な反応でウームとなりながら一応薬を変えてもらえることにはなったけど、どこまで話が通っているのか…。


話が通ってない、引き継ぎができてないのは混乱する現場の常ですが、ここでもそうなんでしょう。今日は外科の医師と話ができるはずでしたが一向に来ず、「確認してきます」と言い去っていった看護師もそれっきり。仕方ないので頃合いを見て父にナースステーションまで行ってもらい、やっと医師に連絡するという段取りになりました。そして現れた医師(手術が入ってたっぽい)も「個人的にはこの手術はいいと思ってるんですが、外科カンファレンスをまだ通してないので、具体的な話は早くて火曜日になります。手術は来週を予定してます」ああ肩すかし…。カンファレンスまだなのになぜ今日家族と話すとか言いだすのか…。手術もてっきり今週と思っていたのに、スマホの録音(3月30日から医師との会話はこっそり録音しています)を聞いたら来週と言っててびっくりしました…。

ジャッジメント・デイから入院へ

3月29日
ショック状態が落ち着いてきて、時たま涙ぐむことはあってもそれ以上は進まなくなりました。以下テキストファイルの記録より引用再編。

13:00起床、おにぎり二個食べる。母がバナナを買ってきてくれると言う。安物スーパーについて話す。食後から腹痛(へそから下)があり横になる。便が出ればいいが。

内視鏡検査以来便はほぼ出ていませんでしたが、このあとまた血便が始まりました。28日から「生活改善のためごろごろするのはやめよう」と一日頑張ったんですが、二日目にして血便のためダウンすることになりました。

夕食時、父は自分の世界に籠もっている。NHKのニュースにのみ視線を集中させ、無言のまま食べ終わると席を立って去っていく。まるで機械のようだ。両親は精神的に普通の人ではないから根本的な変化はないのだろう、そこはつらい…。母に高額療養費の自己負担限度について話すが口頭では理解してもらえなかった。食後に母が買ってきたバナナを二本食べる。

毒親というのは結局のところ「発達障害サイコパスの人が親になった」という状態なんだと思います。そなわっている人間としての感情の種類がほんの少しだったり、自分と他者の違いが理解できなかったり、他者との距離感という概念を持っていなかったり、共感の概念を理解できなかったり、TPOを理解できなかったり、言葉を異常に軽視して平気で嘘をついたりする。一言でいえば人間を育てられる状態ではない人が親になってしまった、そういう不幸が私には生まれてからずっと降りかかっていたんだと思います。彼らのこういう性質は生涯変わらないでしょうから、和解したとはいえその面では寂しさも感じます…。彼らは普通の、感情の通い合う、おだやかな会話はできませんからね…。


その晩、飲み忘れた薬を入浴後に多めの水で飲んだところ、これまでにないような突き上げるような胃痛と腹痛に一晩中苦しむことになりました。明け方の突き上げるような胃痛は3月中ずっとあったので「ああこれは薬の飲み方が悪かったな」と思いましたが、そういうレベルのものではありませんでした。どうもガスのせいのようで、この症状は4月2日現在もまだ残っています。


30日ジャッジメント・デイ
ほとんど眠れず診察日になりました。この日は肺への転移があるかないか知らされると思い緊張してたんですが、実際は「大腸癌ではなく悪性リンパ腫だった」「腸重積が見つかってすぐ入院が必要」と想定外な方向にメチャクチャになった一日でした。ちなみに人生の岐路に立つことがあらかじめ分かっている日のことを私は「ジャッジメント・デイ」と呼んでいます。いわゆるターミネーター2の副題ですね(分かるか)。大学卒業認定者を発表する日のジャッジメント・デイは今でも忘れられません。私の名前は掲示板になかったのです…(単位が1足りず半年留年して卒業した)。以下テキストファイルの記録より引用再編。

血便がひどくなってきた。検査の結果、大腸癌ではなく、悪性リンパ腫と腸重積だった。胸部CT問題なし、肝臓CT問題なし。腫瘍は右側のつっぱる感じのする部分にあり、腸内をだいぶふさいでいて内視鏡は盲腸には行けなかった。大腸のリンパ節が腫れていて、その周りのリンパ節も腫れている。腫瘍のせいで腸重積が起きている。そのため入院しなければならない。

悪性リンパ腫は消化器内科ではなく血液内科の癌です。だから消化器内科の主治医の専門ではなく…診察時は「薬で治ります」と軽い雰囲気で説明され、一時は「なぁんだ」と安心しました(そのため同席していた両親も帰ってしまった)。でもその後、造影剤CT検査の合間にネットで検索して、すぐまたショックを受けました。簡単に治る病気なんかじゃないじゃないですか…大腸癌では転移がないっぽかった分、大腸癌の方がましだったとすら思います。正直、あと5年生きられるか分からないなと思っています。


ショック状態のまま造影剤CT検査の結果を聞きにまた診察を受けました。すると「腫瘍に引きずられて腸が重なり、腸重積が起きている」と少し慌てた様子で診断され、今日入院して欲しいと言われました。こっちはもうそれどころではないし、常識的に考えて準備がいるだろ何言ってんだと思い入院日を交渉し、明日の31日に入院することとなりました。


急なことになったので家に電話しました。電話口で父が「帰ってきていろいろ決めよう」と言ってくれたので「ああ、初めて先頭に立って家族としてのリーダーシップを発揮してくれるんだ」と期待して帰宅しましたが、べつに何か提案してくれるわけでも言葉をかけてくれるわけでもなく、テレビの前の布団に座ったまま「うー、うー(父は歯が悪いので「うん」と言わない)」と返事をするだけで私に視線を合わせることもありませんでした。やっぱり変わらずかとがっかりしながら母のところに行って話をすると母は私の腕をさすって「大丈夫だよ、大丈夫だよ」と言ってくれ、私は涙がこみ上げてきて少し泣きました。


それから夕食になって、せっかく母が「一緒に写真を撮ろう」と言ってくれたのに父が即座に「縁起でもない」と却下したりあまりにも相変わらずな態度で口論になりましたが、とくにこれといった変化も見られず、父はまたテレビを見に去ってしまいました。


その夜は血便が止まらなくなりました。消化器内科の主治医がなぜ「今日入院して欲しい」と言ったのか、理由はそれで分かりました…。


31日
トイレに行くたびにもうただ便器が赤黒くなるだけになりました。しかも出血のせいかすぐ便意が来て、母が「今日は早く風呂に入りな」と早い時間に風呂掃除をしてくれたのに結局明け方近くまで床につくことができず「この家で最後の夜かもしれないのにこれか」と不運な人生の、いかにも私らしい運命を呪いました。


朝9時ごろ起きました。母と少し話すと「これまでお前のことを気にしてはいたんだよ、どうしてこんなことになっちゃったんだろうね」と言い、顔をくしゃくしゃにして泣きそうになりました。両親は飼い犬が亡くなろうが、誰が亡くなろうが、悲しいそぶりすら見せてこなかった人たちです。人間的な感情を表すのはテレビの中の人のすることで台本があり、自分たちには関係ないと断言してきた人たちです。きっと自分の息子が死んでも泣かないんだろうなと、私はとうに諦めた人たちです。だから涙こそ流しませんでしたが、母のそういう姿を初めて見られて、何か胸のつかえが下りたような気がしました。


家の中の写真を撮って、母とも写真を撮りました。父の写真も撮りました。父も、昨日言ったことを反省したのか昨日のうちにカメラは用意していたようです(今どきフィルムのカメラです。こだわりではありません。私がこれまで彼らと一切会話をしなかったため彼らは現代のさまざまな事情を吸収できず、時代から完全に取り残されているのです)。


入院予定の時間に合わせて行動しながら「パソコン持ちこめないかなぁ」と思いました。癌患者にとって情報はまさに生命線です。スマートフォンはありますが、やはりキーボードと大きな画面がないと厳しい…そこで病院に問い合わせてみたところ意外なことにパソコン持ちこみOKということが判明しました(差額ベッド代の部屋だからかもしれません。大部屋になったらどうなるか…)。私の安物ネットブックにはWiMAXがついています。ハードウェアを有効にして12:00までに新規契約すれば間に合う…なぜ12:00かというと父はそのくらいの時間に自分だけ昼食を食べるからです(自分では一切用意しません。毎日作るのは母です)。食べ終わったら即テレビを見に行く人です。同じ食卓で話をするタイミングはこの時しかありません。焦りながら急ぎながら作業をしました。本当はもっと、この家での最後かもしれない時をのんびり過ごす予定でしたが、これです。いかにも私らしい展開です。


なんとかWiMAXを使えるようにし、食卓に行くと父はまだ食事中でした。ところがトイレに行って戻ってきたらもうテレビを見に行こうとしています。逃げようとしているのです。その背中に私は「行っちゃうの?」と声をかけました。そして「べつに責めるわけじゃない。一緒にいて欲しいだけなんだ」と説得し、母も食卓に同席して三人でちぐはぐな会話が始まりました。途中、父は何度も席を離れ、その度に「ああ、逃げちゃうんだ…」と落胆させられましたが、意外にもすぐ戻ってきてちぐはぐな会話を続けました。でも最後は「ちょっと横になる」と言い残して父は行ってしまいました。プライドが高いくせに小心者なので、きっと現実に立ち向かう恐怖心に勝てなかったんでしょう…。


時間がどんどん過ぎていきます。ぬいぐるみを抱きしめ、自室の部屋の写真を撮りました。もう帰ってこられないかもしれません。趣味で買い集めたいろんなすてきな物も、今はお別れです。本当は身辺整理しておきたかったんですけどね…あらゆる展開があまりにも急すぎます…。自室には鍵をつけてありますが、万が一のため鍵はかけず開けたままにしてあります(両親にもそう言ってあります。見たくない物もあるだろうけど、そこは人間だから許して欲しいとも言ってあります)。


玄関を出ると、父が私と母の並んだ写真を撮ってくれました。私は自分の自転車と、家を撮りました。絶対戻ってきたいですが、本当にこれからどうなるか…。父の運転で車は出発しました。ある場所で「二人と顔を合わせたくないから、外出する時は二人が寝静まるまでこの辺を何百回何千回とうろうろした」と打ち明けると「もうそんな生活しなくていいからね」と母が言ってくれました。病院の立体駐車場で「そういえば運転してみたかったな」と言うと「帰ってきたら運転すればいいよ」とも言ってくれました。


いよいよ入院です。名目上は「検査入院」ですが、退院日は未定です。少なくとも4月中は帰れないと思っています…。以下テキストファイルの記録より引用再編。

胃痛(?)や腹痛や血便が強く腸重積の症状が重くなったと医師に伝えるが、発熱や吐き気はないため、腫瘍の検査結果が出るまでは経過を見ると言う診断(こののち手術先行へ方針が変更される)。止血剤は出る模様。血液内科の医師と話す。びまん性大細胞型B細胞リンパ腫の可能性がある(まだあいまいな状態ではあるが、医師は9割方そうだと言う)。中から高悪性度、抗癌剤が効くタイプ、進行は月単位、薬が合えば治る人もいる、抗癌剤治療中は免疫力が落ちる。腸重積は除去する必要がある。腫瘍を取ってそこから検査した方が確実に分かる(内視鏡で取った組織はとても小さかった)。大きな腫れは取るが、近辺のリンパ腫は残して抗癌剤治療する。転移の有無を調べるガリウムシンチ検査と、骨髄検査(抗癌剤治療の直前)をする予定。現時点でのステージは「II」。血便合計13回。

血液内科があること自体わりと珍しいようですが、この病院には医師が一人しかおらず、不安を感じているのも確かです。近隣には大学病院やがんセンターもあるのでそういう選択肢も…と思うのですが私の場合、腸の手術とその回復を待つ時間が必要なはずなので、セカンドオピニオンや転院を実行する時間的余裕はないかも、と思っています。信頼できる医師ならいいんですが…。


4月1日
便が出なくなり、出血の有無が分からなくなりました。おそらく血は止まったんだと思う…。消灯21:30なので一応寝ますが、朝4時に目が覚めてもう眠れません。それからはスマートフォンで調べ物をしていました。その頃からまた、へその辺りから上に向かって突き上げられるような腹痛が始まり、痛くて痛くて昼過ぎまで何もできませんでした。痛み度合い8/10。この日は胃カメラの検査日でしたが、レントゲンの結果「腸にガスが溜まっている」ということが分かって中止になりました。また、これに加えて腸の手術が近いということもあり、食事が止まって点滴生活になってしまいました…。


朝の検温で体温が36.9度と妙に高く、まずいと思いました。びまん性大細胞型B細胞リンパ腫は発熱が出るとB症状といって予後が悪いのです(この発熱はたぶん38度クラスの高温を差す)。体温計があった方がいいかもしれないと思い、看護師さんに借りてちょくちょく計っています。この日は37.2度が最高値でした。べつに風邪をひいてるわけでもないので怖いです…。このことは血液内科の医師には看護士さん経由で伝えられる予定です。他もろもろの質問も血液内科の医師に伝えられる予定…。


午後になって両親が来ましたが、やはり言葉は通じても話は通じない二人なので、こちらの意図や気持ちを分かってもらえずとてもつらい思いをしました。二人には悪性リンパ腫セカンドオピニオンの知識をつけておいて欲しいと頼んであるのですが「セカンドオピニオンではなくこの病院の先生に頼めばいいんじゃないの?」という考えから抜けられないのです。もちろんそれがベストなのは分かっていますが、もしベストでなかった場合、腸の手術のこともあり、そこからセカンドオピニオンを勉強していては時間が経ちすぎてしまうのです。だから平行していろいろな準備、というか心構えだけでもしておいて欲しいだけなんですが…。


またこの日はWindowsスマートフォンを無線通信で接続できないかなと悪戦苦闘しました。病状を二つの機器のテキストファイルに書いているので、同期ができると便利なのです、が…とてつもなく大変だった…。昼から夜までかかって結局、Windows無線LANルーター化することで決着しました。


2日
睡眠時間は合計で5時間くらい。1日から2日にかけての夜中にふと「いつ、どう死ぬかではなく、どう生きるかが大事で、ちゃんと生きた果ての死なら、それは仕方ないことなんじゃないか」という心境になりました。


入院してから看護師さんに「お腹が痛い」と訴えてはいたんですが、今朝の看護師さんに「お腹の痛みで眠れない」と言ったところやっとそれが響いたらしく「痛くなったら言ってください、先生に痛み止めを出してもらいます」という話になりました。消化器内科の主治医にも胃が痛い胃が痛いと繰り返し言ってたんですけどね…この辺のさじ加減は難しいです…。


ガリウムシンチ検査の注射をしました。腫瘍に集まるクエン酸ガリウムを体内に散らばせて、三日後に撮影し転移の有無を調べるのです。本当はもっと精度の高いPET検査というのがあるんですけどね…まだ最新技術でどこでも受けられる検査じゃない、のかな。よく分からない…血液内科の医師には一応「どうしてPETではなくガリウムシンチなの?」と、看護師さん経由で質問は投げてあります。


手術担当の外科医師が来て少し話をしました。明日、家族同席で詳しい話がされる予定です。午後、両親が来て話をしました。がん相談室で聞いた高額療養費制度の申請を昨日して、証明書を受け取ってくれていました。少なくとも母の方は、自分が子供とうまくコミュニケーションが取れないことをずっと気にしていたそうなので、今日は反省をしたのか二人とやや話が合って心がなごみました。

3月28日

精神的に少し落ち着いてきましたが、まだ時折泣くことがあります。癌と診断された人が精神的に回復するまでには二週間くらいかかるそうです。今後も診断の結果次第でどうなっていくのか…。少し落ち着くと「喉元過ぎれば熱さを忘れる」でなんか病気であることも忘れてしまいそうになるのが逆に怖いです。動けるうちに物を減らさないととは思っているんですが、なかなか行動できません。実は潔癖症なので掃除機自体なんかばっちくてさわるの嫌なんですよね…。そうも言ってられなくなるのかもしれませんが…。


癌について勉強しなければならないため、癌患者は忙しいです。なぜ勉強が必要かというと、人類はまだ癌を100%治せないからです。医師任せで、こちらが無知蒙昧でも治るものじゃないんですね。そもそも医師の選択した治療法も数ある”まぁこうすれば良くなるかもしれないよ”という治療法の中の一つでしかないので、その選択を納得して受け入れ命を預けるか否かは患者が決めなければいけないのです(納得できなければセカンドオピニオンに相談します)。どこかの闘病ブログに「癌治療は情報戦である」と書いてあって、まさにその通りだなと目から鱗が落ちました。だから本当は両親にも情報収集をして欲しかったんですけどね…そういう境地は理解できないようです。


28日は母と会話して入院中のパジャマをどうするか相談したり、カステラを買ってきてもらったりしました。こういう優しさに触れるのもいつ以来なのか分からないほどです。備蓄していたせんべいと甘納豆はもう食べられないので全部渡すと「こんなの食べてたの」と笑っていました。30日の診察には家族で行くことになりました。血便はおさまらず、貧血気味で頭が少しふらふらしています。あまり下血が多いのも危険ですので気をつけないといけません。

両親と和解する

3月25日
私は職に就いていない時は昼夜逆転の生活をしてきました。その方が両親と顔を合わせる時間が最小限で済みますし、夜中の静けさが好きだったからです。でもこの日は朝、床についても眠れませんでした。布団から出てうろうろと部屋を見渡し身辺整理の手順を考えたり、これまでの人生を振り返ったりもしました。「大腸癌」で検索して、いろんな情報を読みあさったりもしました。世の中とのつながりを断ち切られるのが怖くてパソコンの電源を落とせないまま、結局眠れたのは昼ごろになってからでした。


この日からふとした時に号泣するようになります。夜になりました。夕食は一日のうちで最も緊張を強いられる時間です。両親と空間を共にするのは夕食時だけだからです。食欲はありませんでした。普段通り彼らの顔を見ず無言のまま、ルーチンワークとして何事もなく終わるよう食事をしていました。でも、だんだん涙と嗚咽が溢れて止まらなくなりました。そんな私に父は「手術すれば治るんだから」「昨日言ったみたいに前向きに頑張れ」とまた楽観論を押しつけてきました。私は激情を爆発させました「そんなのは無理だ」。父は怒り出しました。私は言いました「人間の心がないのか?」。食卓に突っ伏し、私は涙と鼻水を垂らしながら「これが現実なんだよ」「テレビドラマじゃないんだ」と声を絞り出しました。父は、なんの根拠もなく頭の中で思ったことをセカイの常識と思う人です。私の気持ちを受け入れることもなく黙って席を立ち、テレビを見に行ってしまいました。冷たい、機械のような人です。


もう私は終わりかもしれないのです。私は母に積年の恨みをぶつけました。こういうやりとりは初めてではありません。子供の頃から何年かごとに私と両親は衝突し、そしてその度に「普通の人になってくれ、普通の家族になってくれ」という私のささやかな願いを、彼らはあざ笑い、無視してきました。この家庭では両親は二人がかりで私を追い詰める存在で、私の味方はいつも誰もいませんでした。私は自分で自分を守り、自分で自分を育てながら生きてきたのです。「あんたは絶対に許さない」私は母に言い、診察に一緒に行きたがる母を拒否し「何も(情報を)教えてやるものか」と吐き捨てて自室へ向かいました。


心が苦しくてたまりません。どんなに困っていてもいつも誰も助けてくれない人生だったので、私は誰にも助けを求めずに生きてきました。でも、もう無理です。入浴中に「誰か助けて」とつぶやきながら私は泣きました。次回の診察で緩和ケア外来を相談してみようと思っています。


ツイッター上で皆さんが声をかけてくれたのは嬉しいできごとでした。私は人とコミュニケーションを取るのが苦手で、特に”気安い会話”の能力が求められるタイムライン制のツイッターが主流になってからはmixi全盛の頃に比べて人と深く知り合うことができなくなり、ずっと困っていました。だからただでさえ近くはない存在である私が急に深刻な状態になり、そこに声をかけるのは皆さんそれぞれ葛藤があったと思います。本当にすいません。そしてありがとうございました。


26日
胸部CT検査を受けてきました。肺の転移の有無を調べるためです。結果は30日に知らされると思います。


また夕食の時間になりました。昨日家庭内が荒れても、一晩寝たらそれを忘れ、何事もなかったかのようにふるまうのが両親のいつものやり口です。だからこの家庭には何十年も全くなんの前進も進歩もありません。この日もそうでした。二人はテレビの話をし、私には一言もかけず目もくれません。そしていつもの夕食のおかずを見て、私はふと漏らしました「もうなんでも食べられる状態じゃないから」。この頃には私も少し大腸癌の勉強をしていました。大腸癌の患者は腸に負担をかけない食事をしなければならないのです。両親がどんなに嫌な相手でも、これは伝えておかなければ私の命にかかわります。ある意味、仕方なく話しました。そして昆布はもう食べられないこと、天ぷらなどの油ものももう食べられないこと、カレーももう食べられないことを説明し、母に「あとで食べられるものとそうでないもののリストを渡すから」と言い食事は終わりました。


それから、私は夕方からなんとなく考えていたことを実行に移しました。私の病状は、父に電話で少し話しただけです。父はそもそも人の言葉をそのまま受け入れる人ではありません。なぜか必ず曲解します。そして夕食のメニューを見て気づきました。彼らは、私の正確な病状・現状を知らないのです。どれだけ深刻な事態が、目の前にいる自分たちの息子に起きているか、理解していないのです。芸能人のニュースのように、ちょっと手術すれば簡単に治ると思っているのです。そこで私はWordで絵入りの資料を作り始めました。文章にしたのは、両親共に口頭での言葉を理解する人たちではないからです。いわゆる「言葉は通じるけど話は通じない」というタイプです。おそらく脳の機能に問題のある人たちなのでしょう。


資料には「私の大腸癌の現状」というタイトルをつけ、このような内容のことを書きました。

  1. 芸能人がかかって治っている直腸癌ではないこと…私の癌は初期症状の出にくい「珍しい癌」です。だから楽観視はできないことを伝えました。
  2. 私の症状…胃にも違和感があることを、両親にはこれまで伝えていませんでした。また酒もタバコもやらないのに40歳という若年で癌になり、原因が分からず恐怖していることを伝えました。
  3. 5年生存率…癌は手術して終わりという病気ではなく、今後5年間は再発を防ぎながら暮らさなければならない。もう元の生活には戻れないことを伝えました。
  4. 助かった芸能人もいるが助からなかった芸能人もいること…大腸癌で助からなかった芸能人もいること、風邪とは違い助からない可能性もあることを諭しました。


そして最後に「要望」として、このようなことを書きました。

  • 頼むから鼻で笑って済ませず、現実の問題として受け入れて欲しいこと。
  • 積極的に大腸癌に関する情報を得ようとして欲しいこと(これは彼らには響かなかったようです…)。
  • この家で生きた40年間は地獄だったこと。
  • 私の望みはこの家を出て心のままに自由に暮らすことだったがそれはもうかなわないこと。
  • 最後くらいこの家で幸せな思い出を感じさせて欲しいこと。
  • 欲しいのは金でも食べ物でもなく、私を受け入れてくれる、暖かく安心できる関係性であること。
  • 立場の上下でしかない「親」と「子」ではなく人間として大人として心でつながって欲しいこと。
  • あなたたちはこの望みをいつものようにつっぱね、鼻で笑うのでしょうか、という問いかけ。
  • もしそうなら、私に生きる意味はもうないこと。


一晩かけて書き終えると、私はそれに「頼むから鼻で笑って済まさずお母さんお父さん二人で読んでください」と書き添え、食べ物リストと共に資料を食卓の上に置きました。



27日
午後に目が覚めました。しばらく精神は平常でしたが、やはりふとした時に号泣がやみません。


夕食になりました。いろいろな状況を思い描きましたが、両親は自分から先に声をかけてくれるような人たちではありません。「色々書いたのを読んでくれましたか?」と私はたずねました。「悪かったよ」父はふてくされたように言いました。その様子に、これまでと同じなのかなと少し期待はずれに感じながらも「本当につらかった」とつぶやき、私たちの会話は始まりました。長い長い、第一歩です。何十年ぶりか、あるいは初めて、彼らと私は家族になろうとしています。母も「悪かったよ」と言ってくれました。夕食にはおかゆやカボチャの煮付けやキャベツと鶏肉の煮付けを食べました。どれも腸に負担のかからない食べ物です。母に「治ったら温泉に行こう」言われ、私は「そうだね」と言いました。子供の頃旅行に行った話になり、私はつい泣き出しました。父の話になり、腫瘍が見つかったことを電話で伝えた24日に、父は一人で泣いていたことを母に教えられました。明日からおにぎりを作って食卓に置いてもらうことになりました。これまで私は部屋でせんべいや甘納豆を食べ、朝昼食がわりにしていたのです(どちらも大腸癌にはよくないものでした…)。


こうして、両親との問題は決着がつきました。もっと早くこうなっていれば、と当然ながら思いますが、何度もどんなに衝突しても彼らは一切変わることはなかったので、仕方なかったのだと思います。いつまで三人でいられるか分かりませんが、少しでも幸せを感じる時間が続けばいいと今は思います。

回盲部に腫瘍が見つかりました

何気ない、膨大な数量の中の一日が突然、大切な一日になってしまいました。これよりこのブログは海外アニメやジェニーはティーン☆ロボットのブログであると共に私の闘病の記録になります。べつの場所に闘病ブログを作ろうかとも思いましたが、やっぱりこのブログが私の証(あかし)なので、ここに記します。ブログのデザインも変えません。いちオタクの生き様としてこういうやり方もありなんじゃないでしょうか。ちなみに私は根っからのオタクではないんですけどね。これもそのうち書いておくつもりです。


さて、まず…2月中に通っていた職場がストレスの多いところで外食の夕飯を食べ過ぎる日が続き、食後に胃が痛くなることがたびたびありました。その症状は”気づいたら痛い”というレベルだったのでそのうち治ると思っていました。しかし仕事が終了し3月になってストレスから解放されたと思った途端に、胃の症状が重くなっていきました。いくら市販薬を飲んでもよくなりません。そこで消化器科の町医者に行ったのが3月10日のことです。そして薬を飲み始めて少し回復してきたかなと思った、12日から13日にかけての夜のことです。血便が起きました。ここからが腸の症状の始まりです(したがって胃の精密検査はまだしていません。27日現在も違和感があるので胃にも何かありそうな気はするんですけどね…)。


血便はショックでした。何度見てもあのインパクトは慣れません(血液が酸化しているので臭いもひどいのです)。夜中中、緊急外来を受診しようかどうしようか迷いながらネットで色々調べていましたが、いったん出血がおさまったこともあり「様子を見よう」と思いました。しかし午前6時にトイレに行き、何気なくいきんだところやはり赤黒い血便が結構な量で出て「これはもう自分をごまかせない」と震えながら思い、緊急外来に行くことを決断しました。


ここからが今まで誰にも明かしてこなかった話になりますが私はもう長くないかもしれませんので記しておきます。私は普段、同居している両親を避けて暮らしています。彼らは人間的な感情を持たず私を監視し支配する「毒親」だからです。でも同時に私はまともな職に就けなかった、経済的弱者でもあります。高額の治療費を出せず、また明らかに重病で精神的ショックもあり、彼らには一言知らせておかなくてはなりません。この時はつらかった…。父は異常に物事を簡単に考える人で金を出せば何もかも解決すると思っているためお金をもらうことはできましたが、母の付き添いは拒否して自転車で一人病院に向かいました。


緊急外来では一人目の女性の医師に痔なのか大腸の病気なのかをよく調べられました。この時「痔ではなくもっと腸の上の方から出血している」ということを分かってもらえたのが良かったです(経験上、自分の症状を医師が正確に把握してくれるかどうかというのはなかなか難しいので…)。そのうち引き継ぎの時間になったようで二人目の男性の医師になりましたが結論は「内視鏡検査を受けないと分からない」ということになりました。しかし、ここでこの市内唯一の大病院の悪癖が出ます。「どこか他の病院で検査して下さい」と言うのです。この大病院は昔はいい病院だったんですが、今は紹介状のない患者をとにかくつっぱねる体質なのです(金満体制でホテルみたいな玄関をしてます)。だから男性医師も「他に行け」と言うのがすっかり癖になっていたんだと思いますが、ここで私はふと「この病院で受けていいですか?」と聞きました。すると「あ、その手があったか」とばかりに医師が気づいてトントン拍子で検査のための診察を受けられることになります。たぶんあの一言を言ってなかったら検査は一ヶ月単位で先になっていたでしょう。実際、念のため後日消化器科の町医者に予約状況を聞いたところ「検査できるのは5月になる」と言われ絶句しました。恐ろしい運命の分かれ道です。


13日があけて14日になりました。要予約病院に予約なしで行くので診察してもらえるのは午前中のみでその時間もいつになるか分かりません。経験上メチャクチャ待つのは分かっていたのでとにかく朝一で向かいました。予約なしだと外来受付が第一関門で”門前払い担当”のおばさんのところに行けと言われたりするんですが(本当にこの病院で以前そういう目にあったことがあります)さすがにちゃんと緊急外来からの連絡が伝わっていたようでスムーズに受け付けられました。また、待ち時間も意外に短くてわりとあっけなく診察になりました。以前より患者数も減ってるような気がしたし、ついに病院の悪評が近隣に定着したのかもしれません。


診察では、緊急外来時に撮影したCTスキャン画像から「盲腸に近い位置の回盲部に腫瘤(しゅりゅう)がありそうだ」という診断になりました(そしてこれは当たっていました…)。内視鏡検査は、空いている時間を探してくれて24日の午後に受けられることになりました(検査もこの医師が行いました)。その後は飲む止血剤と、整腸剤と、一応痔の薬を処方されて帰宅となりました。血便は15日にはありましたがだんだんはっきりとした出血は見られなくなり、次第に安心感がわいていましたが、内視鏡検査前日の23日の便の中に出血を確認し(この頃にはトイレにLEDライトを置いていました)なんとなく「このままでは済まないんだな」という嫌な予感だけはしていました。


24日です。ネットで「内視鏡検査」と検索して出てくる記事はたいていハッピーエンドで終わっています。「血便が出てびっくりしたけど内視鏡検査したら異常なかった、ニフレックまずい」という具合です。私もそうなる、いやいつも不運な私のことだからそうはならない、気持ちは半々でした。下剤を飲んで16回目の便の時、便器に赤い浮遊物がありました。認めざるを得ません。出血です。そして便を19回して検査に向かいました。問診で便に血が混じっていることを話し、検査着に着替え、検査が始まります。カメラが体を横断する辺りが痛くて、いつまで続くのかなと思った時、カメラはすでに大腸の奥、つまり患部に辿り着いていました。


「やはり腫瘍がありますね」
医師の腫瘍、という言葉はショックでした。ハッピーエンドはないことを突きつけられました。
「良性ですか?悪性ですか?」
「…経験から言うと、悪性です」
「ああ…悪性ですか…」
カメラはまだ腸内に入ったまま、検査台の上で、検査中の会話です。終わりの始まりの宣告は、あっさりしたものでした。私も突然すぎてまだそれほどショックは受けていませんでした。モニターの中で不気味に揺らめく黄赤色の細胞群が、カメラの接触で血を流す様子を、私も見ました。あれが癌でした。大きさは目測で2cm、開腹手術かと聞いたところ「○○手術(聞き取れず)か腹腔鏡手術になる」とのことでした(あとで調べたら、お腹を大きく切る「開腹手術」は最後の手段のようです)。腫瘍部分から組織を四ヶ所取り(痛みはありませんでした)これからは他の臓器への転移の有無を調べる検査をする、と告げられその予約をし、内視鏡検査は終わりました。


会計を済ませて、父に電話しました。頼るのは嫌でしたが、さすがに一人では抱えきれない問題なので、そうせざるを得ませんでした。父は予想した通りなんのリアクションもなく無感情に受け答えをし、「手術が必要なんだ」と言っているのに「じゃあ手術するしかないね」と医者でもないのに医者ぶったもの言いをしてきて、感情を逆撫でされました(でもあとで母に聞いたところ、この日父は泣いていたそうです)。


外出する時は、いつも両親が寝静まってから帰宅するようにしています。彼らが嫌いだからです。この日もそうするため、あちこち回って時間をつぶしてからネットカフェに寄り、そこでツイッター上でのお知らせをしました。すぐ感情が溢れてきて、涙が止まらなくなりました。ネットカフェの狭いブースの中で、周りの迷惑にならないよう、声を立てず私は泣きました。それは断続的に何時間も続きました。もう次にいつ来られるか分からないからと「ご近所物語」を読みましたが、ストーリーは頭には入ってきませんでした。病気になると趣味どころではなくなる。病弱なので何度も経験したことです。当たり前に趣味を楽しめる当たり前の日はいつ来るのでしょうか。今はまだ分かりません。


帰宅すると父がやって来ました。あまり話したくありませんが勇気を出して私は「もう死んじゃうかもしれない」と思い切って話しました。でも父は当面の治療費を渡してきなから「精神的にショックだろうけど前向きになれ」という主旨のことを押しつけてきました。とてもそんな気になれる段階ではありません。まだ通告されてから数時間しか経っていないのです。しかしプライドが異常に高く、自分の勝手な思いこみを拒否されると怒り出す人です。怒らせると治療費はもう得られないかもしれません。私は曖昧な返事をして分かれました。


こうして、癌患者としての一日目は始まりました。私の場合、家族問題は避けられないのでどうしても重い内容になりますが、それはどうかご容赦ください。