ふとんのなかから

びまん性大細胞型B細胞リンパ腫にかかったあとだらだらしている人のブログ

電車憎悪

電車は嫌いだ。座れないから。なぜ金を払って荷物牛馬の扱いを受けなければならないのか理解できないし、なぜ目の前で寝ている人間とさほど変わらない金を払っているのに座れず地獄を見なければならないのか理解できない。


電車で座れるか否かは、乗り込んでポジションに落ち着くまでのほんの数秒間で決まってしまう。イスの前の列(私は一列目と呼んでいる)に立つことができて、荷物を網棚に置けたなら、座れるチャンスは大きい。あとは目の前の人間がさっさといなくなることを祈るだけでいい。


だが一列目に立てなければ、状況は絶望的になる。ほぼ間違いなく座れない。己の分析力と運を総動員し空きスペースを血眼になって予測してもそんなものはまず当たらないし、たとえ的中しても一歩以内で到達できる距離でなければ他の人間が何事もなかったかのようにしれっと座ってしまう。私の壮絶な頭脳努力と地が割れるほどの怒りなど知りもしないで!


もう何年も電車に乗っているので少しは「地雷」のような人間を見分けられるようになった。それでも「もしかしたら…」という希望をかけてしまって地獄を見ることを繰り返しているが。


以下のような人間は「地雷」である。地雷が座っている場合、たとえその目の前に立つことが出来ても座ることはできない。なぜなら地雷は「降りそうで降りない」からだ。

この場合の彼は、電車にあまり乗ったことがないか、その路線をあまり乗ったことがないか、どちらかである。つまり田舎者だ。彼は「本当に目的地に着くのか」「乗り過ごさないでたどり着けるか」といった不安感にとりつかれている。だから荷物を網棚にきちんと置くといった気遣いまで気が回らないし、不安感を視覚情報で補おうとしてむやみにきょろきょろする。さらにこの手の人間は不安感を押してまで田舎から出てきてやらなければならない用件を抱えている。つまり目的地は近くない。


彼がなぜ地雷なのかは私の視点に立ってみれば分かる。目の前に座っている彼は落ち着きなくあたりを見渡す。あたかも「次で降りますよ」というしぐさのように。私「降りそうだな…」→彼は降りない。私「今度こそ降りそうだな…」→彼はまた降りない。これが駅毎に繰り返される。一駅、一駅と私は裏切られ続け、絶望感がつのっていく。彼は挙動不審ながらもまるでアスファルトの上で真っ黒になったガムのようにイスにへばりつき、私は一時間以上立ったまま車内のどこかにしがみつき手の毛細血管を破壊しながら不平等感と理不尽さに打ちのめされることになる。


空を飛んで移動する妄想を、何度電車内で考えただろうか。座るためだけにわざわざ遠回りして別料金を払って特急に乗ることももう何十度目か何百度目か分からない。私にとって電車は苦痛を生む道具だ。電車など滅んでしまえばいい。