ふとんのなかから

びまん性大細胞型B細胞リンパ腫にかかったあとだらだらしている人のブログ

回盲部に腫瘍が見つかりました

何気ない、膨大な数量の中の一日が突然、大切な一日になってしまいました。これよりこのブログは海外アニメやジェニーはティーン☆ロボットのブログであると共に私の闘病の記録になります。べつの場所に闘病ブログを作ろうかとも思いましたが、やっぱりこのブログが私の証(あかし)なので、ここに記します。ブログのデザインも変えません。いちオタクの生き様としてこういうやり方もありなんじゃないでしょうか。ちなみに私は根っからのオタクではないんですけどね。これもそのうち書いておくつもりです。


さて、まず…2月中に通っていた職場がストレスの多いところで外食の夕飯を食べ過ぎる日が続き、食後に胃が痛くなることがたびたびありました。その症状は”気づいたら痛い”というレベルだったのでそのうち治ると思っていました。しかし仕事が終了し3月になってストレスから解放されたと思った途端に、胃の症状が重くなっていきました。いくら市販薬を飲んでもよくなりません。そこで消化器科の町医者に行ったのが3月10日のことです。そして薬を飲み始めて少し回復してきたかなと思った、12日から13日にかけての夜のことです。血便が起きました。ここからが腸の症状の始まりです(したがって胃の精密検査はまだしていません。27日現在も違和感があるので胃にも何かありそうな気はするんですけどね…)。


血便はショックでした。何度見てもあのインパクトは慣れません(血液が酸化しているので臭いもひどいのです)。夜中中、緊急外来を受診しようかどうしようか迷いながらネットで色々調べていましたが、いったん出血がおさまったこともあり「様子を見よう」と思いました。しかし午前6時にトイレに行き、何気なくいきんだところやはり赤黒い血便が結構な量で出て「これはもう自分をごまかせない」と震えながら思い、緊急外来に行くことを決断しました。


ここからが今まで誰にも明かしてこなかった話になりますが私はもう長くないかもしれませんので記しておきます。私は普段、同居している両親を避けて暮らしています。彼らは人間的な感情を持たず私を監視し支配する「毒親」だからです。でも同時に私はまともな職に就けなかった、経済的弱者でもあります。高額の治療費を出せず、また明らかに重病で精神的ショックもあり、彼らには一言知らせておかなくてはなりません。この時はつらかった…。父は異常に物事を簡単に考える人で金を出せば何もかも解決すると思っているためお金をもらうことはできましたが、母の付き添いは拒否して自転車で一人病院に向かいました。


緊急外来では一人目の女性の医師に痔なのか大腸の病気なのかをよく調べられました。この時「痔ではなくもっと腸の上の方から出血している」ということを分かってもらえたのが良かったです(経験上、自分の症状を医師が正確に把握してくれるかどうかというのはなかなか難しいので…)。そのうち引き継ぎの時間になったようで二人目の男性の医師になりましたが結論は「内視鏡検査を受けないと分からない」ということになりました。しかし、ここでこの市内唯一の大病院の悪癖が出ます。「どこか他の病院で検査して下さい」と言うのです。この大病院は昔はいい病院だったんですが、今は紹介状のない患者をとにかくつっぱねる体質なのです(金満体制でホテルみたいな玄関をしてます)。だから男性医師も「他に行け」と言うのがすっかり癖になっていたんだと思いますが、ここで私はふと「この病院で受けていいですか?」と聞きました。すると「あ、その手があったか」とばかりに医師が気づいてトントン拍子で検査のための診察を受けられることになります。たぶんあの一言を言ってなかったら検査は一ヶ月単位で先になっていたでしょう。実際、念のため後日消化器科の町医者に予約状況を聞いたところ「検査できるのは5月になる」と言われ絶句しました。恐ろしい運命の分かれ道です。


13日があけて14日になりました。要予約病院に予約なしで行くので診察してもらえるのは午前中のみでその時間もいつになるか分かりません。経験上メチャクチャ待つのは分かっていたのでとにかく朝一で向かいました。予約なしだと外来受付が第一関門で”門前払い担当”のおばさんのところに行けと言われたりするんですが(本当にこの病院で以前そういう目にあったことがあります)さすがにちゃんと緊急外来からの連絡が伝わっていたようでスムーズに受け付けられました。また、待ち時間も意外に短くてわりとあっけなく診察になりました。以前より患者数も減ってるような気がしたし、ついに病院の悪評が近隣に定着したのかもしれません。


診察では、緊急外来時に撮影したCTスキャン画像から「盲腸に近い位置の回盲部に腫瘤(しゅりゅう)がありそうだ」という診断になりました(そしてこれは当たっていました…)。内視鏡検査は、空いている時間を探してくれて24日の午後に受けられることになりました(検査もこの医師が行いました)。その後は飲む止血剤と、整腸剤と、一応痔の薬を処方されて帰宅となりました。血便は15日にはありましたがだんだんはっきりとした出血は見られなくなり、次第に安心感がわいていましたが、内視鏡検査前日の23日の便の中に出血を確認し(この頃にはトイレにLEDライトを置いていました)なんとなく「このままでは済まないんだな」という嫌な予感だけはしていました。


24日です。ネットで「内視鏡検査」と検索して出てくる記事はたいていハッピーエンドで終わっています。「血便が出てびっくりしたけど内視鏡検査したら異常なかった、ニフレックまずい」という具合です。私もそうなる、いやいつも不運な私のことだからそうはならない、気持ちは半々でした。下剤を飲んで16回目の便の時、便器に赤い浮遊物がありました。認めざるを得ません。出血です。そして便を19回して検査に向かいました。問診で便に血が混じっていることを話し、検査着に着替え、検査が始まります。カメラが体を横断する辺りが痛くて、いつまで続くのかなと思った時、カメラはすでに大腸の奥、つまり患部に辿り着いていました。


「やはり腫瘍がありますね」
医師の腫瘍、という言葉はショックでした。ハッピーエンドはないことを突きつけられました。
「良性ですか?悪性ですか?」
「…経験から言うと、悪性です」
「ああ…悪性ですか…」
カメラはまだ腸内に入ったまま、検査台の上で、検査中の会話です。終わりの始まりの宣告は、あっさりしたものでした。私も突然すぎてまだそれほどショックは受けていませんでした。モニターの中で不気味に揺らめく黄赤色の細胞群が、カメラの接触で血を流す様子を、私も見ました。あれが癌でした。大きさは目測で2cm、開腹手術かと聞いたところ「○○手術(聞き取れず)か腹腔鏡手術になる」とのことでした(あとで調べたら、お腹を大きく切る「開腹手術」は最後の手段のようです)。腫瘍部分から組織を四ヶ所取り(痛みはありませんでした)これからは他の臓器への転移の有無を調べる検査をする、と告げられその予約をし、内視鏡検査は終わりました。


会計を済ませて、父に電話しました。頼るのは嫌でしたが、さすがに一人では抱えきれない問題なので、そうせざるを得ませんでした。父は予想した通りなんのリアクションもなく無感情に受け答えをし、「手術が必要なんだ」と言っているのに「じゃあ手術するしかないね」と医者でもないのに医者ぶったもの言いをしてきて、感情を逆撫でされました(でもあとで母に聞いたところ、この日父は泣いていたそうです)。


外出する時は、いつも両親が寝静まってから帰宅するようにしています。彼らが嫌いだからです。この日もそうするため、あちこち回って時間をつぶしてからネットカフェに寄り、そこでツイッター上でのお知らせをしました。すぐ感情が溢れてきて、涙が止まらなくなりました。ネットカフェの狭いブースの中で、周りの迷惑にならないよう、声を立てず私は泣きました。それは断続的に何時間も続きました。もう次にいつ来られるか分からないからと「ご近所物語」を読みましたが、ストーリーは頭には入ってきませんでした。病気になると趣味どころではなくなる。病弱なので何度も経験したことです。当たり前に趣味を楽しめる当たり前の日はいつ来るのでしょうか。今はまだ分かりません。


帰宅すると父がやって来ました。あまり話したくありませんが勇気を出して私は「もう死んじゃうかもしれない」と思い切って話しました。でも父は当面の治療費を渡してきなから「精神的にショックだろうけど前向きになれ」という主旨のことを押しつけてきました。とてもそんな気になれる段階ではありません。まだ通告されてから数時間しか経っていないのです。しかしプライドが異常に高く、自分の勝手な思いこみを拒否されると怒り出す人です。怒らせると治療費はもう得られないかもしれません。私は曖昧な返事をして分かれました。


こうして、癌患者としての一日目は始まりました。私の場合、家族問題は避けられないのでどうしても重い内容になりますが、それはどうかご容赦ください。