ふとんのなかから

びまん性大細胞型B細胞リンパ腫にかかったあとだらだらしている人のブログ

両親と和解する

3月25日
私は職に就いていない時は昼夜逆転の生活をしてきました。その方が両親と顔を合わせる時間が最小限で済みますし、夜中の静けさが好きだったからです。でもこの日は朝、床についても眠れませんでした。布団から出てうろうろと部屋を見渡し身辺整理の手順を考えたり、これまでの人生を振り返ったりもしました。「大腸癌」で検索して、いろんな情報を読みあさったりもしました。世の中とのつながりを断ち切られるのが怖くてパソコンの電源を落とせないまま、結局眠れたのは昼ごろになってからでした。


この日からふとした時に号泣するようになります。夜になりました。夕食は一日のうちで最も緊張を強いられる時間です。両親と空間を共にするのは夕食時だけだからです。食欲はありませんでした。普段通り彼らの顔を見ず無言のまま、ルーチンワークとして何事もなく終わるよう食事をしていました。でも、だんだん涙と嗚咽が溢れて止まらなくなりました。そんな私に父は「手術すれば治るんだから」「昨日言ったみたいに前向きに頑張れ」とまた楽観論を押しつけてきました。私は激情を爆発させました「そんなのは無理だ」。父は怒り出しました。私は言いました「人間の心がないのか?」。食卓に突っ伏し、私は涙と鼻水を垂らしながら「これが現実なんだよ」「テレビドラマじゃないんだ」と声を絞り出しました。父は、なんの根拠もなく頭の中で思ったことをセカイの常識と思う人です。私の気持ちを受け入れることもなく黙って席を立ち、テレビを見に行ってしまいました。冷たい、機械のような人です。


もう私は終わりかもしれないのです。私は母に積年の恨みをぶつけました。こういうやりとりは初めてではありません。子供の頃から何年かごとに私と両親は衝突し、そしてその度に「普通の人になってくれ、普通の家族になってくれ」という私のささやかな願いを、彼らはあざ笑い、無視してきました。この家庭では両親は二人がかりで私を追い詰める存在で、私の味方はいつも誰もいませんでした。私は自分で自分を守り、自分で自分を育てながら生きてきたのです。「あんたは絶対に許さない」私は母に言い、診察に一緒に行きたがる母を拒否し「何も(情報を)教えてやるものか」と吐き捨てて自室へ向かいました。


心が苦しくてたまりません。どんなに困っていてもいつも誰も助けてくれない人生だったので、私は誰にも助けを求めずに生きてきました。でも、もう無理です。入浴中に「誰か助けて」とつぶやきながら私は泣きました。次回の診察で緩和ケア外来を相談してみようと思っています。


ツイッター上で皆さんが声をかけてくれたのは嬉しいできごとでした。私は人とコミュニケーションを取るのが苦手で、特に”気安い会話”の能力が求められるタイムライン制のツイッターが主流になってからはmixi全盛の頃に比べて人と深く知り合うことができなくなり、ずっと困っていました。だからただでさえ近くはない存在である私が急に深刻な状態になり、そこに声をかけるのは皆さんそれぞれ葛藤があったと思います。本当にすいません。そしてありがとうございました。


26日
胸部CT検査を受けてきました。肺の転移の有無を調べるためです。結果は30日に知らされると思います。


また夕食の時間になりました。昨日家庭内が荒れても、一晩寝たらそれを忘れ、何事もなかったかのようにふるまうのが両親のいつものやり口です。だからこの家庭には何十年も全くなんの前進も進歩もありません。この日もそうでした。二人はテレビの話をし、私には一言もかけず目もくれません。そしていつもの夕食のおかずを見て、私はふと漏らしました「もうなんでも食べられる状態じゃないから」。この頃には私も少し大腸癌の勉強をしていました。大腸癌の患者は腸に負担をかけない食事をしなければならないのです。両親がどんなに嫌な相手でも、これは伝えておかなければ私の命にかかわります。ある意味、仕方なく話しました。そして昆布はもう食べられないこと、天ぷらなどの油ものももう食べられないこと、カレーももう食べられないことを説明し、母に「あとで食べられるものとそうでないもののリストを渡すから」と言い食事は終わりました。


それから、私は夕方からなんとなく考えていたことを実行に移しました。私の病状は、父に電話で少し話しただけです。父はそもそも人の言葉をそのまま受け入れる人ではありません。なぜか必ず曲解します。そして夕食のメニューを見て気づきました。彼らは、私の正確な病状・現状を知らないのです。どれだけ深刻な事態が、目の前にいる自分たちの息子に起きているか、理解していないのです。芸能人のニュースのように、ちょっと手術すれば簡単に治ると思っているのです。そこで私はWordで絵入りの資料を作り始めました。文章にしたのは、両親共に口頭での言葉を理解する人たちではないからです。いわゆる「言葉は通じるけど話は通じない」というタイプです。おそらく脳の機能に問題のある人たちなのでしょう。


資料には「私の大腸癌の現状」というタイトルをつけ、このような内容のことを書きました。

  1. 芸能人がかかって治っている直腸癌ではないこと…私の癌は初期症状の出にくい「珍しい癌」です。だから楽観視はできないことを伝えました。
  2. 私の症状…胃にも違和感があることを、両親にはこれまで伝えていませんでした。また酒もタバコもやらないのに40歳という若年で癌になり、原因が分からず恐怖していることを伝えました。
  3. 5年生存率…癌は手術して終わりという病気ではなく、今後5年間は再発を防ぎながら暮らさなければならない。もう元の生活には戻れないことを伝えました。
  4. 助かった芸能人もいるが助からなかった芸能人もいること…大腸癌で助からなかった芸能人もいること、風邪とは違い助からない可能性もあることを諭しました。


そして最後に「要望」として、このようなことを書きました。

  • 頼むから鼻で笑って済ませず、現実の問題として受け入れて欲しいこと。
  • 積極的に大腸癌に関する情報を得ようとして欲しいこと(これは彼らには響かなかったようです…)。
  • この家で生きた40年間は地獄だったこと。
  • 私の望みはこの家を出て心のままに自由に暮らすことだったがそれはもうかなわないこと。
  • 最後くらいこの家で幸せな思い出を感じさせて欲しいこと。
  • 欲しいのは金でも食べ物でもなく、私を受け入れてくれる、暖かく安心できる関係性であること。
  • 立場の上下でしかない「親」と「子」ではなく人間として大人として心でつながって欲しいこと。
  • あなたたちはこの望みをいつものようにつっぱね、鼻で笑うのでしょうか、という問いかけ。
  • もしそうなら、私に生きる意味はもうないこと。


一晩かけて書き終えると、私はそれに「頼むから鼻で笑って済まさずお母さんお父さん二人で読んでください」と書き添え、食べ物リストと共に資料を食卓の上に置きました。



27日
午後に目が覚めました。しばらく精神は平常でしたが、やはりふとした時に号泣がやみません。


夕食になりました。いろいろな状況を思い描きましたが、両親は自分から先に声をかけてくれるような人たちではありません。「色々書いたのを読んでくれましたか?」と私はたずねました。「悪かったよ」父はふてくされたように言いました。その様子に、これまでと同じなのかなと少し期待はずれに感じながらも「本当につらかった」とつぶやき、私たちの会話は始まりました。長い長い、第一歩です。何十年ぶりか、あるいは初めて、彼らと私は家族になろうとしています。母も「悪かったよ」と言ってくれました。夕食にはおかゆやカボチャの煮付けやキャベツと鶏肉の煮付けを食べました。どれも腸に負担のかからない食べ物です。母に「治ったら温泉に行こう」言われ、私は「そうだね」と言いました。子供の頃旅行に行った話になり、私はつい泣き出しました。父の話になり、腫瘍が見つかったことを電話で伝えた24日に、父は一人で泣いていたことを母に教えられました。明日からおにぎりを作って食卓に置いてもらうことになりました。これまで私は部屋でせんべいや甘納豆を食べ、朝昼食がわりにしていたのです(どちらも大腸癌にはよくないものでした…)。


こうして、両親との問題は決着がつきました。もっと早くこうなっていれば、と当然ながら思いますが、何度もどんなに衝突しても彼らは一切変わることはなかったので、仕方なかったのだと思います。いつまで三人でいられるか分かりませんが、少しでも幸せを感じる時間が続けばいいと今は思います。