ふとんのなかから

びまん性大細胞型B細胞リンパ腫にかかったあとだらだらしている人のブログ

4月20日 手術日

朝05:30起床。病院の起床時間は06:00で手術は9:00からの予定ですが、注腸検査をしたあとは翌日もまだ腸内の残留物が出ることが経験上分かっているので早起きをしました。水を飲んでいいのは07:00まで。手術待ちの絶食はすでに20日目です。二、三回トイレに行き、術後に別の部屋へ移れるよう荷物を完全にまとめ、病院から借りているパジャマの「病衣」から浴衣のような手術着に着替えます。上半身は下着なし、下半身はパンツをはいたまま、足には血栓防止の白いストッキングをはきます。手術部位はへそ上から下腹部にまで及びますが、いわゆる剃毛はありませんでした。あとで聞いたところ皮膚トラブルが怖いのでやらないんだそうです(入院中にバリカンらしきもので剃毛されてた人もいたのでケースバイケースだとは思いますが)。実は入院して数日で手術を受けられると思っていたのであらかじめツルツルにしていたんですが、まさかあんなに何週間も待たされるとは…。まぁもしかしたらそのおかげで少しは手術しやすかったかもしれません。パンツをはいて手術に向かうのも意外でしたが、これは患者の心情を考えての措置だったんだと思います。手術は全裸じゃないとできないし、意識が戻ったら尿道カテーテルを挿入されてて、パンツはビニール袋に入れられて荷物の上に置かれてましたから。ちなみに入院してからこの日までの20日間、シャワーも入浴もしていません。毎日蒸しタオルで体を拭いていただけです。こんな、あまり清潔とはいえない状況でも、手術は行われるんですね。


08:00を過ぎるともうすることがなくなり、横になってテレビを見ながら両親を待っていました。08:20ごろ両親が来てちぐはぐな会話が始まりましたが、アスペルガー発達障害の彼らとこの緊張する段に噛み合わない会話をするのもだんだんうんざりしてきて、私は彼らに背を向けて無口になり「早く手術時間になれ」とすら思っていました。そして08:50ごろ看護師が迎えに来て、一度トイレに行ってからいよいよ手術室へ出発となりました。父が突然「よし頑張れ!」と何かをけしかけるような声を出しましたが、なんだか場違いで戸惑ったのを覚えています。両親は食堂で待つことになり、私は看護師とエレベーターに乗るため廊下で二人と分かれました。エレベーターの前で振り返ってみると、食堂の前で私を見つめているのは母だけでした。父はそそくさとどこかに座っていたんだと思います。私は母に軽く黙礼をして、エレベーターに乗りこみました。


8階の病棟から3階の手術室に降りてきて、まず通されたのは待合室でした。今から手術を受ける患者が一同に集められています。すると一人の看護師が私を見て声を立てて笑いました。どうやら自分の受け持つ患者と私の顔が似ていたようです。どこにでもあるような顔の私にとってこれは子供の頃からよく経験してきたことでしたが、毎回毎回不愉快ですし、生死のかかったこの場面で赤の他人に勝手に笑われるという有様はいかにも私ならではだなと嫌な気分になりました。またこういうシリアスな場面で人のことを平気で笑える看護師に怒りも感じ、頭の中で「外科の看護師はサバサバして怖いですよ」という消化器内科の看護師の言葉を思い出していました。


待合室の大きな扉が開くとそこは青一色の広い廊下でした。これから手術を担当する人たちがわっと動き回っています。それを見て私は「ああ、これは単なる作業なんだな」と悟りました。手順に従い作業し、それを終えるとまた次の作業に移る、IT派遣でさんざん経験したあの気配がそこにはありました。手術というと複雑で崇高なイメージがありますが、作業レベルにまで単純化・平均化しなければ誰でもやれることではなくなるし、きっとそういうことなんだと思います。


青い廊下はいくつもの手術室につながっています。私はそのうちの一つの前に通され、名前のダブルチェックを受けました。付き添いの看護師は挨拶もなくいつの間にか姿を消し、私はガラス窓の扉を通されて手術室へ入りました。手術室のライトは円形ではなく六角形の集合体で、スタートレックの大道具のようでした。私は手術台の上に乗り、横になりました。眼鏡が外され、せかせかと手術の準備が進められ、手術着をはだけられると指や胸に計測機器がつけられます。次に右を向いて横になり背中を見せるよう指示され、そうすると脊髄にカテーテルが通されて硬膜外麻酔が始まりました(あまり痛くなかったです)。そして麻酔科医の「ぼんやりしてきましたか?」という問いかけに「そうでもないです」と答えたあと、目が覚めるとそこはすでに手術室ではなく病室でした。


子供の頃の扁桃腺除去手術で全身麻酔は経験していますが、全くなんの前触れもなく意識はなくなるものですね。まぁだから全身麻酔は楽でいいんですが(局所麻酔の手術なんか絶対無理…)。しかし、本格的に辛い日々が始まるのはここからでした。目が覚めてすぐに、強烈な悪寒が始まります。寒い。全身がブルブル震えます。発熱です。私はてっきり体温を下げて手術したからだろうと思ったんですが、実はこういう発熱はカテーテルからの感染症で起きることがあり、特に一週間以上つけられていた首のカテーテルはもう必要なかったので、この時に外してもよかったんだそうです…。看護師が体温を計りますが38度を超えています。寒いと言うと電気毛布がかけられ、次第に体温が感じられるようになり”暑くて寒い”という状況になります。すると今度は血流が一気に戻って来たのか、全身がしびれてきました。


両親は目が覚めてしばらくすると現れましたが、全身を震わせて悪寒としびれに耐えている私に父はこう言いました「兄もこうだった」。兄、というのは私の兄のことではありません。父の兄のことです。父は実家が大好きで、自分の家庭は壊しておきながらいまだに”実家の子供”の気分でいます。そして一番の問題はその父の兄は、腎臓癌で去年亡くなっているのです。手術を終えこれからまた生き始めようとしている人間を、似たような病気で死んだ人間と比べる。なぜこんなデリカシーのない言葉の暴力を投げつけてくるのか。これほどの不愉快さ、悔しさ、憤りは経験したことがありません。でもこの時はろくにしゃべれる状態ではなかったのでその思いを伝えることができず、私はこの怒りを一晩腹に抱え、翌日のこのこと面会に来た父を怒鳴りつけることになります。


体温は全く下がらず体調は最悪ですが、母が「そろそろ帰っていい?」と言い出しました。べつに疲れ果てたからとか、面会時間がもうすぐ終わるからとかいう理由ではありません。この頃時刻はまだ15:00過ぎ、彼女にとっては目の前で苦しむ息子を見守るより「そろそろ夕飯の買い物をしないと」という毎日の習慣の方が優先度が高いのです。そういう頭脳で生きている特殊な人なのです(ついでにいうと食糧をまとめ買いして計画的に使うということもできません。母はあくまでも毎日買い物に行くことにこだわります)。私はうんざりして「お好きに」とつぶやき、二人はあたふたといなくなりました。発熱はおさまらず、体温は39.5度に達しました。そしてだんだん、手術すればおさまると思っていたことが再び始まりました。腹痛です。


看護師を呼ぶと痛み止めの点滴が始まりましたが全然効きません。「術後だしこういうものなのかもしれない」私はそう思い、我慢を始めました。ちょうど来た看護師にバッグの中から耳栓を出してもらいます。また音と光を遮断して痛みを耐える作戦です。この頃になると意識がはっきりして私はある異変にも気づいていました。事前の説明では手術後はリカバリールームという、集中治療室のような部屋で過ごすと聞かされていました。でも、リカバリールームなら聞こえてこないはずの方向から、ナースステーションの雑談するやかましい声が聞こえてくるのです。私はなぜか術後に、差額ベッドですらない一般病室に通されていました。とにかく看護師の声がうるさく、耳栓をして私はじっとしていました。


腹痛はおさまりません。それどころかどんどん痛みが強くなっていきます。私は看護師を呼んでそう訴えましたが、看護師は、先生と相談するけどさっき痛み止めを使ったばかりだからどうにもならないと冷たく言い放ち去っていきました。「外科の看護師はサバサバして怖い」消化器内科の看護師の言葉が蘇ります。私は苦悶の表情を浮かべ、奥歯が割れそうなくらい噛みしめて一時間ほど痛みを我慢していました。するとそこに先ほどの看護師が来て、生理食塩水の点滴を点滴台に追加し、私の顔も見ずにさっさと行ってしまいます。「せめて声でもかけてくれればいいのに」私は思いました。そしてさらに我慢を続行しますが、もう腸重積の比でないくらいの異常な腹痛になり、我慢も限界に達しました。私はナースコールを押しました。痛み止めを使ったばかりなのは分かっています。具体的にどうこうしてくれなくてもいい、せめて話を聞いて欲しい。…でも看護師は来ません。一秒が長く長く感じられます。いくら待っても看護師は来ません。ナースステーションの笑い声は病室に響き渡っています。腹痛は強さを増し、私は奥歯を噛みしめ、看護師への様々な不信感が渦巻き…頭の中で何かがぷちんと切れました。怒りです。ベッドの上で私は猛烈に激怒しました。ナースコールのボタンをぶん投げ、ベッドの柵をめちゃくちゃに殴りつけました。手術の傷口が開こうがどうなろうがもう構わないと本当に思い、暴れまくりました。


そのうち上級っぽい看護師が来たので私は激烈に怒鳴りつけました「こんな患者はいつも相手にしてるから適当にあしらっとけばいいと思ってるんだろ!見え透いてるんだよ!」彼らの振るまいを見て、実際そう思っていました。騒ぎを聞きつけて、医師も二人やって来ます。私は医師に言いました「怒っている方が痛みを忘れられていいですわ!私はね、こんな理性をなくす人間じゃないんですよ!」医師は言いました「存じております、手術の説明の時も理路整然とされていて…」医師も驚いていたようでした。私は、17:30ごろから異常な痛みに苦しんでいること、傷口の痛みではなく腸重積のような内部的な痛みであることを伝えました。すると先ほどの看護師が横から顔を出して言いました「それで先生と相談して痛み止めを追加しようという話になってたんですよ」いやいやそんなの聞いてないから。とにかく急きょ新たに痛み止めが使われることになり、皆は引き上げていきました。そして先ほどの看護師がやって来て、痛み止めの追加を始めました。


看護師は「無理を言われても痛み止めはやたらと使えない」という旨のことを言って私をモンスター患者扱いしてきましたが、私は「そうじゃない」と言い、また怒鳴りました「私は異常な痛みがあることを先生に伝えて欲しかったんだよ!生食(生理食塩水)入れてさっさと行っちまわないでさあ!」さらに私は続けました「あんたは看護師に向いてないね!人間味がない!」看護師は淡々と「確かにないかもね」と言いました。私は続けます「ロボットの方がましだよ!(ソフトバンクの)ペッパーの方がまだましだ!」そして無言になって去っていく看護師の背中に私は言いました「心が痛いわ!心が!」。


それから、点滴が効いてきて腹痛は少しずつおさまっていきました。でも、この日はまだ終わりません。この病室はナースステーションの隣にある監視しやすい、差額ベッドでない一般病室です。つまりここは吹きだまりのような場所で、問題児が一人収められていたのです。それは認知症の爺さんでした。いつの間にかナースコールの連打が始まり、それは消灯時間になっても夜中になっても終わりません。母ちゃん!という叫び声が耳栓を通して聞こえます。とし子!という叫びも聞こえてきます。今度は、痛い痛い痛い!という叫びです。水が欲しい!とも叫びます。看護師も”体調がいいのに騒いでいる”のが分かっているので放置のまま誰も来ません。ナースコールも、爺さんが押すと同時に打ち消されます。叫びは一切止みません。「大手術した日の夜がこれか…」いかにも自分らしい不運さに、私はやりきれなさを感じるだけでした…。


あとで改めて聞いた話ですが、手術は3時間予定のところが5時間かかり、大腸は30cm切除、リンパ節郭清も行い、腫瘍の大きさは5cmで、やはり周辺のリンパ節に腫れがあったそうです。したがって血液内科の医師の見立て通り、今のところはステージ2となります。