ふとんのなかから

びまん性大細胞型B細胞リンパ腫にかかったあとだらだらしている人のブログ

4月21日 動けない

腹腔鏡手術は体への負担が少ないと聞いてはいましたが、現実には長さの合計で13cmほど、深さでいうと脂肪・筋肉層や腹膜を越えて内蔵まで腹を切っているわけで、けして”無傷”ではありません。となると人間一体どういう状態になるのか。全く身動きができなくなります。手術跡の痛みもありますがとにかく腹筋が痛くて、腹筋力もゼロになります。ほんの数時間の手術で、昨日まで当たり前にできていた動作は一切できなくなるのです。というわけで、昨日麻酔から目覚めた時からすでにそうでしたが私はベッド上でじたばたうごめくだけの生き物になりました。体の中心部分が機能停止してるため動かせる首と腕と足だけでなんとかするしかないんですがなんともなりません。眼鏡を取ろうとしたら棚から落ちて即終了になったのは本当に困りました。痰を出そうとしたら手がティッシュ箱に引っかかりベッドから50cm下にティッシュ箱がストン。もう自力では取れません。手術で腫瘍は除去されましたが、ここからは術後の自分の肉体との戦いが始まります。がんは術前より術後の方が辛いのです。だからこそ自力で情報収集をして、適切な選択肢を自分の考えで選ぶことが大切になってくるんですが…近年亡くなっていった歌舞伎役者たちは果たしてそういう”勉強”をちゃんとしていたのかなぁと、ベッド上でふと思ったりしました。ただでさえ忙しい、昭和の人たちだから、昔ながらの考えで何もかも医者まかせにしていたんじゃないかな…。特に勘三郎さんなんかは急いで外科手術せず、他の選択肢を考えた方が良かったんじゃないだろうかと今になって思います。


朝になって日勤の看護師が来ました。昨日までの冷たい女性看護師と打って変わってわりと話しやすい男性の看護師でほっとしたのを覚えています。「べつに心臓の病気はないしもういらないでしょう」ということで脈拍を計る胸のケーブルと、あと酸素飽和度を計る指のケーブルが取り外されました。血栓防止に足裏を揉むフットポンプが一晩中うるさくて、朝になって嫌気が差してこっそり外してしまっていたんですがそれもなんとなく片づけられました。それと「ちゃんとおしっこが出ているようなので」と尿道カテーテルが早くも抜かれることになりました。ああ、あの痛いと噂のと少し身構えましたが、ちょっと違和感がある程度でずずっと抜けてしまいます。ついでに抜いたところをお湯で洗うことに。これはなかなか恥ずかしい…と思ったらそこそこの熱湯(殺菌のためだそうな)をかけられてダチョウ倶楽部のような状態になってしまいました。


男性看護師に「手術後すぐこの部屋だったんですか?」と不思議そうに聞かれ「そうなんですよ」と返し「他の部屋に移れませんか?夜中アレだと回復できないし…」と言うと「そうですよね、ベッドの担当に聞いてみます」と苦笑いされました。どうやらわめき屋の認知症爺さんのことは看護師の間では周知の事実だったようです。そしてこの時の会話でこの病室が差額ベッドではない貧乏部屋だということを初めて知り、なぜ術後にリカバリールームでなくこんな病室に入れられたのか、改めて引っかかりを感じました。


わりとすぐにベッドの空きは見つかり、歩いて部屋を移動することになりました。正直動ける状態ではありませんが、手術翌日から歩いて腸の活動をうながすのが早期回復への近道なのです。起き上がれないところを、電動ベッドの機能等を使ってどうにか体を起こします。腹がメチャクチャに痛みます。ベッドから降ります。腹がメチャクチャに痛みます。立つためにふんばります。腹がメチャクチャに痛みます。一歩踏み出します。腹がメチャクチャに痛みます。そして歩行訓練も兼ねて、移動先の部屋へは遠回りして行くことになりました。背を曲げ左手でお腹を抱えるように押さえて、まっすぐ動かない点滴台を右手でどうにか制御しながら、一歩一歩ゆっくりゆっくり進みます。たかが一歩歩くことが昨日の今日でとんでもない大事業になっていることに驚いたり、傷口が開きそうな恐怖や辛い痛みを感じたり、いろんなものが心に押し寄せながらの長い長い歩みになりました。移動先のベッドに荷物が移される間食堂のイスに座って待ち、またえっちらおっちら歩いて、ようやく退院まで過ごすことになるベッドに辿り着きました。


これまで経験した通り強い鎮痛剤をやたらと使うことはできませんが、基本的に痛みは取り除いて過ごすのが現代のがん治療の原則です。背中のカテーテルには鎮痛剤の入った袋がつながっていて、患者がボタンを押すとそれが注入される仕組みになっています(一度押すとロックがかかって30分間は注入できなくなる)。といっても私の場合もうそんな軽い痛み止めは効かない体になっていたので点滴での痛み止めが注入され、ようやくある程度の行動ができるようになりました。


おしっこがしたくなったのでトイレに行きました。すると「ゴボゴボ」と音がしてなかなかおしっこが出ません。うわ何これ怖い、と思ったらおしっこが出てきてほっとしました。やはり尿道カテーテルを挿入されるとただでは済まないようです。その後も二日ぐらい、おしっこしようとしたら空気しか出ずぎえー怖い!となったり、ちょっと血尿気味のおしっこが出たりと恐怖体験が続きました。


午後になり、私は緊張しながら両親の面会を待っていました。昨日の怒りをそのまま抱えこむ、という選択肢もありましたが、どうしても一言言わなければ気が済みません。二人が顔を見せると私は痛みを我慢し無理矢理体を起こして、父に「話がある」と切り出して詰問しました。「昨日俺のことを死んだ人と比べたよね?俺はこれから生きようとしてるのになんであんなこと言うの?」父は瞬間湯沸かし器のように怒り出しました。アスペルガー発達障害の疑いが強い人には”絶対に悪びれない”という特徴があります。自分の言動や行動を意識したり記憶したりしないので、振り返って罪悪感を持ったり、しまった何かしでかしてしまったとは少しも思わないのです。子供の喧嘩のように、攻撃されたと思ったら攻撃し返す。これが彼らの人間関係上の行動原理なのです(私の家庭の場合父だけでなく母も全く同じです)。父は「そう来ると思って待ってたんだ」等わけの分からないことを言いだしたり帰るそぶりを見せたりして私に”勝とう”としてきます。私は「実家とこの家とどっちが大事なの?」と問い詰めたりしました。母は一応仲裁的なことをわめきますが、彼女も普通の人ではないので的外れな、なんの効力もないことしか言いません。父は怒りながらも、術後に医師から聞かされた家族への説明を私に伝えなければとは思っていたようで、ひとまずそれを聞くことになりました。そして一段落してから、改めて先ほどの話をしました。父は少し冷静になったらしく「俺は人の気持ちが分からないし昔から思ってもいないことをついしゃべって失敗ばかりしてきたんだ」とこぼしました。以前から分かっていましたが父はサイコパスの気があり、口先だけは達者で言うことがころころ変わり嘘ばかりつきます(そのためそとづらだけは良く他人からはすぐ好かれます。ちなみに父が慢性的な嘘つきなのを見抜いているのは私だけです)。私は父に少しは自覚があることに驚き、自覚があるなら仕方ないなと思いました。彼らは私たちとは脳機能が異なります。常識や考え方、感じ方が”こちらの世界”とはずれた、違う文化圏の人なのです。私は腑に落ちたというか、あきらめがついた気がして父に謝り、父も「おかしなことは言わないよう気をつける」となり、この件は終わりになりました。


手術の前に私は「術後の医師からの説明の時に取り出した患部を見せられるだろうから写真を撮っておいて欲しい」と頼んでいました。父は確かにそれを実行していましたが、持ってきたのはなぜか証明写真より小さいサイズの写真でした。「普通のサイズの写真もあるけど強烈だから今日はこのサイズを持ってきた」と父は言いました。意味の分からない妙な気を回しておかしな先回りをしようとするのも彼らの特徴です。小さな写真を手に取ると、幅広で横長の赤みをおびた肌色の帯に赤く丸い腫瘍があり、その横にはひものような盲腸が見えました。私は「いや、これは憎い敵だからしっかり見ておかないと」と言い、明日普通のサイズの写真を持ってくるよう頼みました。


夜になり、外科病棟を五周ほど歩いてみたら息が切れました。退院までに、以前と同じく日常生活を送れるほど体を回復できるのか不安に感じながら、この日は消灯時間になりました。