ふとんのなかから

びまん性大細胞型B細胞リンパ腫にかかったあとだらだらしている人のブログ

4月18日と手術前日

これを書いているのは5月3日。手術とその後の回復期間を終え4月30日に退院し、すでに家に戻って来ています。腸の調子は悪くなく、手術跡と腹筋はまだ痛むけどどこかがことさら痛いということもなく体調としてはそこそこ元気なのですが、これから化学療法が待っているのを考えると今が一番元気なんだろうなぁという思いがしてやはり気が滅入ります。昨日改めて「大腸 リンパ腫」で検索してみたところ、血液内科の医師がなぜ私のリンパ腫をびまん性大細胞型B細胞リンパ腫(DLBCL)と推測したのかなんとなく分かりました。大腸に発生するリンパ腫は大体がDLBCLなんですね。でも”大体”なだけで他のリンパ腫の可能性もあり、そもそも大腸にリンパ腫が発生すること自体がかなりまれなことらしいので(消化管リンパ腫は大体が胃に起きる)、まだまだどうなるか分かりません。私の人生は普通の人が陥らない”残り数%”の部分にはまり続けてきた不運な苦悶苦闘の連続だったので、本当に何が起きても不思議ではないんです。もし今すぐ頭に隕石が直撃してもべつに驚かず「まぁ、私ならそういうこともあるよな」と苦笑いするくらいの残念な人生だったので…。以下回想。


4月18日
ボルタレン座薬を一日3回、点滴で向精神薬ソセゴンを一日1回使い腸重積の凄まじい腹痛を24時間ただただ耐えていた頃です。連日の使用で鎮痛効果も減少しボルタレンはよくて5時間、ソセゴンは3時間しか効かなくなっていました。そこで少しでも痛みを減らすため、カーテンで日光を遮り耳栓をして光や話し声の刺激を受けないようにしてじっと横になっていたり、逆にひたすら音楽を聴いて気をまぎらわせたり、腰痛ベルトをお腹にきつく巻いて腸や内臓の動きを抑えようとしていました。


確か17日の早朝のことだったと思いますが、男性看護師が「夜中にボルタレンを使ったので今日使えるのはあと2回です、ソセゴンは昨日は使いましたが昨日は昨日なので今日は使いません」という旨のことを言ってきたので激怒し、緩和ケアの原則を持ち出して詰問したのを覚えています。患者は人間です。痛みに耐えるのは機械的にできることではありません。鎮痛薬の回数制限をしたり、使用薬を制限したりするのは医療者側の事情で、それを押しつけられても今痛みを耐えている者としては現実的に受け入れられるものではないのです。といっても私はモンスター患者ではないので、規定であるボルタレン一日3回まではきちんと守り、その上で補助的にソセゴンを使えることになりました。手術後にもまた経験しますが「自分の痛みを他人は理解しない」ということを文字通り痛感した出来事でした。人間、痛い時は痛いと、表情や仕草も使ってやや大げさにでもアピールした方がいいです。じゃないと他人に痛みは伝わりません。


19日
手術前日。朝、消化器内科の医師が来て「おととい昨日とお腹が痛いようなので念のため腸重積が起きていないかCTを撮ってください」と言い出しました。おととい昨日じゃねぇだろ一週間だろボケがと思いましたが、そこは口に出しませんでした。間違いなく腸重積も起きていますがそれも言いませんでした。彼にはすでになんの期待感も抱いていないからです。一見心が広い人というのは、実は誰にも期待していないものです。


午前中に、荷物を片づけCTを撮ったあと消化器内科の病棟から外科病棟へ慌ただしく転棟になりました。消化器内科のベッドは窓際で眺めは良かったけど、同室の患者は癇(かん)にさわる奴ばかりでまぁ酷かった…。野太い声で生活音をまき散らしみみっちいことを異常に気にする爺さん、常に機嫌が悪くピリピリしてて看護師に俺だけ特別扱いしろと文句を言うおっさん、面会に来る女性に何時間も嫌味を言い続け車の鍵を取り上げて帰れなくし暴力沙汰を起こすおっさん、口を開けるたびにピチャって音を立てるこれも野太い声の爺さん(間違いなくクチャラーだけど幸いだったのは栄養点滴で絶食だったこと!)。なんでただでさえ若年齢で珍しいがんにかかる苦しい状況なのにさらに周りの人間に苦しめられるのか…。暴力おっさんの時なんか私がタイミングを見計らって看護師に危険な状況を知らせたりナースコールして暴力行為を止めさせてなかったらあの女性は一体どうなってたか…。人間界には澱(おり)が多すぎる。まだ死にたくないですが、こういう嫌な人間に遭遇するたびに、この世にいることがうんざりしてきます。


外科病棟は消化器内科病棟と同じ階にあります。消化器内科の看護師はわりと人間味のある方が多かったんですが、転棟の際に「外科の看護師はサバサバして怖いですよ」と言われました。そして実際会ってみるとその通りで、のちに私は彼らの冷たさに二度激怒することになります。


私には分かりきっていたことですが、CT撮影の結果また腸重積が起きて盲腸の部分が胃の下まで移動していることが判明しました。道理で一週間激痛に苦しめられたわけです。消化器内科の医師がボンクラだったせいでこんな目に遭ったわけですが、腸の位置を整復しても二日もあればまた移動してしまう状況ではあったので、手術前日に事態がはっきりしたのは逆に幸いだったのかもしれません。というわけで午後になって急きょ二度目の注腸検査が行われました。肛門からバルーンとガストロ液が注入され、外科の医師が私のお腹を手でぐいぐい押して腸を移動させていきます。わりとスムーズに腸は元の位置に戻り、注腸検査は終了となりました。


前回と違って、問題はここからでした。注腸検査のあとは腸内のガストロ液を排出するために何度も何度もトイレに行くことになります。前回は腕からの点滴で、消化器内科病棟だったため病室にトイレがあり、トイレに行くにはまだ楽な環境でした。でも今回はバッテリー付きのポンプ二台を使っての首からの点滴で、外科病棟のため病室にトイレはありません。さらに注腸検査をしたため、気づいた時にはポンプのバッテリー残量はほとんど残っていませんでした。けたたましいバッテリー警告音を鳴らしながら、自由に動かない点滴台を押し、私は空いているトイレを探して外科病棟を駆けずり回ることになったのです。トイレに駆け込み、洗面台の下のコンセントに電源ケーブルを差しこんでバッテリーを静めながらやっと便座に座る、これが繰り返されること数時間…焦りと苦しさ、なぜこんな目に遭うのかという理不尽さ。辛いだけの人生です。


トイレの合間に、麻酔医からの説明や手術当日の説明を受けました。てっきりこのベッドで退院まで過ごすと思っていたら手術後は別の部屋に移ると聞かされ、なんだよと思いながらまた荷物を片づけたり、夕日に向かって「助けてください」と拝んだり、術後に痰を出すための深呼吸の練習をしたりして、19日は終わっていきました。またこの日はコミックマーケットの臨時の辞退受付の受理がメールで届き、7年ほど続けたサークル活動はこれをもって休止となりました。