ふとんのなかから

びまん性大細胞型B細胞リンパ腫にかかったあとだらだらしている人のブログ

まだ生きています

たどり着くルートは様々なのかもしれませんが、このブログを見に来る方がまだいらっしゃるとはてなに知らされたので…。

 

まだ生きています。闘病ブログが中断するときのパターンは2つ。1.亡くなって中断する。2.生きているがなんとなく更新しなくなり中断する。後者となりました。

 

B細胞リンパ腫でCHOPは3回しか受けていないのに全く再発の気配がなく、なぜなのか不思議なくらいです。ちょっと説明しますと、R-CHOP療法のうちリツキサンは7回受けましたが、CHOPは吐き気が強くて3回で中断、という変則的な回数になりました。患部が大腸で、細胞を見るためにも外科手術で取り除いたのが良かったのかなぁと、なんとなく思っていますがこれは主治医には言っていません。

 

ただ生きていても、元々病弱だったのがさらに病弱になり、一年中なにがしかの病気であちこちの病院に通っていますし、再発の恐怖は常に消えません。ちょっと体調に変化があるとついに来たかと毎回覚悟しています。再発したらそのまま死ぬだろうなとも思っています。

 

現在治療後4年目で、3か月ごとに血液検査で再発判定をしています。本来はもう6か月に一度のはずなんでしょうが、血便らしきものが出て内視鏡検査をしたらポリープが見つかったりして、流れでなんとなく3か月ごとになっています。ちなみにポリープは早期に除去できたので大腸には問題なしとなっています。お腹の具合は年がら年中よろしくないので本当かなぁという気はしますが…。

 

再発判定でPET-CTは受けていません。無駄に放射線を浴びるのもよくないでしょうという主治医の考えに賛同しているので、CTとガンマシンチを年一回受けていました。そのCTでいろんな他の病気の疑いが見つかって病院通いが増えるというパターン…。

 

年を経て確率的には再発の可能性は下がっていても、本人的にはまだまだどうなるか分からず、未来になんの希望も持てません。お金もないです。生きてはいますがどうしたらいいのか途方に暮れる日々です。誰か助けてー。足元にビグマネー叩きつけてー。

4月22日 看護師との戦い

これを書いているのは5月31日、退院から一か月経ちました。闘病の記録を書く気が起きなかったのは緊張感が薄れてきたためです。自分ががん患者であることは確かなのですが、重い症状がないのでそれをだんだん忘れてきています。でも長生きはできないなという思いは常にあり、中ぶらりんな精神状態が苦しいです。やはり治療が進まないと何も始まらない…でもまだリンパ腫の型すらはっきりしておらず、化学療法も始まっていません。当初の「びまん性大細胞型B細胞リンパ腫」から実は「濾胞性リンパ腫」ではないか、という診断に変わってきつつはあるんですが、濾胞性リンパ腫は生と死の差が激しい型なのでこれから一体どうなるのか恐ろしいです…(濾胞性リンパ腫は治療法が確立されておらず化学療法が効きにくい上にいったん症状が加速しだすともう止められない)。明日こそ診察でやっと型が判明するはずなんですが…。症状が加速しやすい、濾胞性リンパ腫のグレード3だったらもう終わりだなとは思っています。


4月22日
盲腸手術の時と同じく、大腸切除後はまずおならが出るかどうかが回復の鍵になってきます。でも、腹腔鏡手術で腹筋がなくなるとげっぷやおならを出すのは困難になります。21日中にはもう出そうで出せない状態が続いていたんですが、日付が22日になってすぐ、身動きできない体をよじってどうにかおならを出すことに成功しました。そしてこの夜は朝まで四回おならを出すことができました。


起床時刻になりました。ここからが大変です。痛みで、寝た状態から体を起こせないのです。電動ベッドの機能を使い、のたうち回って身を起こすだけで15分かかります。なんとか起きあがる方法を模索することがこの日のテーマになりました。リハビリの歩行は午前中に病棟内を四周しました。


この日は朝の血液検査で炎症の数値が上がり「カテーテル感染症」ではないか、という疑いになって若手の医師が私のことを気にかけていました。実際、午後になって38.1度の発熱になりさらに採血をして様子を見ることになります。


一方、午後になって私は身を起こす手順を探ろうと試行錯誤を繰り返していました。横向きに寝た状態からうつぶせになれれば簡単に起きられるのでは、と何度も思ったのですが、この体を横向きにする動きが痛くて痛くてできない。あと、使っていない肩の筋肉に無理がかかるので、だんだん起きあがる度に肩に激痛が走るようになります(これは退院するまで続きました。看護師は決まり文句で「手術中にずっと肩を上げたポーズだったから」と言いますが、私は全身の筋肉バランスが崩れているからだと思います)。自力ではどうにもならず、先人の知恵を借りようとネットで調べて帝王切開後の妊婦さんが使う、電動ベッドをフル活用した起きあがり法を試したりもしましたがなかなか上手くはいきません。


そうこうしているうちに私は背中の痛みというか違和感が気になってイライラしてきました。手術後に目覚めてからどうも背中に当たるものがあり、ずっと困っていたのです。背中に挿入されたカテーテルかなと思いながらも、ベッドをよく見るとシーツが二重になっている部分があります。これのせいかもと思い、よいしょよいしょと少しずつ体を動かし、時間をかけてシーツを剥がしました。


ちょうどその時、病室に夕方の検温で女性の看護師が来ていました。看護師はまず向かいの糖尿病の爺さんのところに向かいます。この爺さんは手術後であると共に糖尿病も患っているのですが自分でインシュリン注射をする手順を全く覚えません。看護師は何度も爺さんを怒鳴りつけて指導し、そして不機嫌なまま私のところへやって来ました。私は、この時点でもまだカテーテル感染症の結論がどうなったのか知らされていなかったので、”背中のカテーテルからの感染症の可能性もあるのではないか”という意味をこめて「背中が痛くてシーツを一枚はがしたんですよ」と言いました。すると、看護師から返ってきたのはあり得ない冷たい一言でした「寝過ぎですね」。


”えっ、どういう意味?”と私は一瞬固まってしまいました。そして”みだりに怒るのはいけない”とも思い、看護師をそのまま行かせてしまいました。でも頭の中は疑問符でグルグルしています。”ちょっと待って、今、バカにされた?お前は寝てばかりで歩行訓練もしない、怠惰でなまけ者の患者だって切り捨てられた?私の午後の努力苦労痛みをなかったことにされた?なぜ患者というだけであんなことを言われなきゃいけないの?”そう思うと急激に怒りがこみ上げ爆発し、もう止まらなくなりました。でも、すでに当の看護師は目の前にいません。名前も確認していなかったし、ここの女性看護師はほぼ全員口元をマスクで隠し髪はおだんごにまとめる統一スタイルなので特徴も分かりません。私の頭にはこれまでの外科の看護師の冷たさがよぎりました。手術当日にリカバリールームではない部屋に入れられたこと、そして今日のカテーテル感染症の件も何時間も放置されていること…私は看護師全員に敵意を持ち、怒りをぶつけることにしました。しかし、私はモンスター患者ではありません。やるとしても、あくまでも非暴力抗議活動です。”歩かないなまけもの患者だって決めつけるんなら、限界以上の歩きを見せつけてやろうじゃないか”そう思い、私は無言の抗議を実行することにしました。


動かない体を怒りで動かし、ベッドから起き上がります。廊下を出ると通りかかった女性看護師がなぜか「運動ですか?」と話しかけてきました(先ほどの看護師かとも思いましたが分かりません)。私は言いました「さっき嫌味を言われたので歩いているだけです。人が嫌みで動くと思ったら大違いですよ、私は腹を立てているだけです」そして、わけが分からないのか無言で去っていく看護師の背中に私は大声で言いました「あんたらは敵だ!」(これは全部実際の発言です)。


抗議の大歩行が始まりました。ナースステーションを中心にして八の字を描くように病棟を歩き、ナースステーションの前に差しかかったら憤怒の形相で全員をじっくりにらみつけます。いい人そうだろうが恨みがなかろうが看護師でない当直医だろうが男だろうが女だろうが関係ありません。全員の目を見てガンを飛ばします。これを何度も何度も繰り返します。廊下にいる看護師もにらみつけます。例外はありません。全員が敵です。そして病棟を何周もしているうちに、不思議なことが起こりました。痛くて痛くて動かないはずの体が、以前と同じく動くのです。”体が元気だった頃の記憶を取り戻したんだ”と私は解釈しました。最初は腰を曲げ、点滴台にしがみつきながら一歩一歩ゆっくりゆっくり歩いていたのに、周回を重ねるうちに背筋が伸び、歩幅が広がっていきます。しだいに術後一日しか経っていないとは思えないような、健康的な素晴らしいスピードで歩けるようになり、私は高速で看護師にガンを飛ばしまくりました。”怒りが痛みを感じなくさせるのもそうだけど、精神は肉体を越えられるんだな”と思いながら静かな戦いは続きました。最初は「なんなんだこの人は?」と怪訝な顔をしていた看護師たちも、だんだん自分たちに敵意が向けられていると察したらしく、ナースステーションの手前の席から人がいなくなっていきます。三時間くらい続けてやろうかと思いましたが、怒りの神通力が切れたのかまたじょじょに体が動かなくなってきました。結局十数周して、抗議の歩行は中止することにしました。半周ごとにナースステーションの前を通っていたので看護師たちは私の怒りの形相に二十回くらい遭遇したはずです。


ベッドに戻ってきて上半身の病衣をはだけました(点滴をしているので脱げません)。汗びっしょりです。腕を見ると、点滴の管に血が逆流していました。元気に腕を振って歩いたせいでしょう。ナースコールを押して私は言いました「点滴逆流、さっさと来いや」そして点滴の処理をする看護師も無言でにらみつけ「何か?」と抗議するように言ってきた看護師に、私は「いえ別に…ただここの看護師はクソだと思ってね」と吐き捨てました。宣戦布告です。去っていく看護師の背中に「紳士的な対応はもうしないから」とも告げました。


さて、本当の戦いはここからです。先ほどの看護師が動揺して点滴の処置が甘かったのかまた点滴の逆流が起きています。ナースコールのボタンを押すとこちらにうむを言わさず「うかがいます」と声がして通信が途切れました。私は要注意患者として認識されたようです。やってきた看護師には「逆流でーす」と嫌みったらしく言いながら腕を見せつけました。そして処置を終え帰ろうとする看護師に私は溜め込んだ疑問をぶつけました「あのさ、聞きたいんだけど手術後にリカバリールームへ入るはずだったのにそうじゃなかったのはなぜ?」看護師はなんとか私を言いくるめようとしますがそうはいきません。最近気づいたのですが私は口論が強いのです。おそらく”言葉は通じても話は通じない”両親から自分を守るために身についた話術でしょう。看護師は「確認してきます」と急いで去ろうとしますが、さらに私は「カテーテル感染症の件はどうなってんの?」と皮肉っぽくぶつけ、追い返します。


それから何度か看護師との口論が繰り返されました。看護師は「そんなにここが気に入らないのなら」と転院もちらつかせてきましたが「現実を知らないんだなぁ」と一蹴し、その口論の中で「どうしてこんな目に遭わなきゃいけないのか…」とことの次第をタネ明かししました。そしてまたやって来た看護師に「別にね、この病院に感謝はしてるんですよ、先生にもお世話になったし」と”病院自体に怒りがあるのではなくお前ら看護師に怒っているのだ”と示してみました。するとやっと事情が向こう側に通じたようで、看護師が「今夜の件は上の者にも伝えて、患者さんとのコミュニケーションについてこういうことがないようにという話になりました」と謝罪の言葉を述べてきました。私はやれやれと思いながら「そういうことであればこちらもほこを収めます」と言い、これにて手打ちとしました。


疑問点について看護師からの答えはこうでした。「手術当日のリカバリールームが救急患者などでいっぱいだったので、先生の判断であの部屋になった」「カテーテル感染症については結局よく分からないが、実はもうカテーテルは必要なかったのでこれから先生が抜きに来る」いちいち先生を前面に出してくるのはずるいなと思いましたが、まぁもやもやしていたものが晴れたのでいいかと思いました。ちなみに若手の先生がカテーテルを抜きに来たのは手術を終えた午後9時頃。外科医の激務ぶりには本当に恐れ入ります…。

4月21日 動けない

腹腔鏡手術は体への負担が少ないと聞いてはいましたが、現実には長さの合計で13cmほど、深さでいうと脂肪・筋肉層や腹膜を越えて内蔵まで腹を切っているわけで、けして”無傷”ではありません。となると人間一体どういう状態になるのか。全く身動きができなくなります。手術跡の痛みもありますがとにかく腹筋が痛くて、腹筋力もゼロになります。ほんの数時間の手術で、昨日まで当たり前にできていた動作は一切できなくなるのです。というわけで、昨日麻酔から目覚めた時からすでにそうでしたが私はベッド上でじたばたうごめくだけの生き物になりました。体の中心部分が機能停止してるため動かせる首と腕と足だけでなんとかするしかないんですがなんともなりません。眼鏡を取ろうとしたら棚から落ちて即終了になったのは本当に困りました。痰を出そうとしたら手がティッシュ箱に引っかかりベッドから50cm下にティッシュ箱がストン。もう自力では取れません。手術で腫瘍は除去されましたが、ここからは術後の自分の肉体との戦いが始まります。がんは術前より術後の方が辛いのです。だからこそ自力で情報収集をして、適切な選択肢を自分の考えで選ぶことが大切になってくるんですが…近年亡くなっていった歌舞伎役者たちは果たしてそういう”勉強”をちゃんとしていたのかなぁと、ベッド上でふと思ったりしました。ただでさえ忙しい、昭和の人たちだから、昔ながらの考えで何もかも医者まかせにしていたんじゃないかな…。特に勘三郎さんなんかは急いで外科手術せず、他の選択肢を考えた方が良かったんじゃないだろうかと今になって思います。


朝になって日勤の看護師が来ました。昨日までの冷たい女性看護師と打って変わってわりと話しやすい男性の看護師でほっとしたのを覚えています。「べつに心臓の病気はないしもういらないでしょう」ということで脈拍を計る胸のケーブルと、あと酸素飽和度を計る指のケーブルが取り外されました。血栓防止に足裏を揉むフットポンプが一晩中うるさくて、朝になって嫌気が差してこっそり外してしまっていたんですがそれもなんとなく片づけられました。それと「ちゃんとおしっこが出ているようなので」と尿道カテーテルが早くも抜かれることになりました。ああ、あの痛いと噂のと少し身構えましたが、ちょっと違和感がある程度でずずっと抜けてしまいます。ついでに抜いたところをお湯で洗うことに。これはなかなか恥ずかしい…と思ったらそこそこの熱湯(殺菌のためだそうな)をかけられてダチョウ倶楽部のような状態になってしまいました。


男性看護師に「手術後すぐこの部屋だったんですか?」と不思議そうに聞かれ「そうなんですよ」と返し「他の部屋に移れませんか?夜中アレだと回復できないし…」と言うと「そうですよね、ベッドの担当に聞いてみます」と苦笑いされました。どうやらわめき屋の認知症爺さんのことは看護師の間では周知の事実だったようです。そしてこの時の会話でこの病室が差額ベッドではない貧乏部屋だということを初めて知り、なぜ術後にリカバリールームでなくこんな病室に入れられたのか、改めて引っかかりを感じました。


わりとすぐにベッドの空きは見つかり、歩いて部屋を移動することになりました。正直動ける状態ではありませんが、手術翌日から歩いて腸の活動をうながすのが早期回復への近道なのです。起き上がれないところを、電動ベッドの機能等を使ってどうにか体を起こします。腹がメチャクチャに痛みます。ベッドから降ります。腹がメチャクチャに痛みます。立つためにふんばります。腹がメチャクチャに痛みます。一歩踏み出します。腹がメチャクチャに痛みます。そして歩行訓練も兼ねて、移動先の部屋へは遠回りして行くことになりました。背を曲げ左手でお腹を抱えるように押さえて、まっすぐ動かない点滴台を右手でどうにか制御しながら、一歩一歩ゆっくりゆっくり進みます。たかが一歩歩くことが昨日の今日でとんでもない大事業になっていることに驚いたり、傷口が開きそうな恐怖や辛い痛みを感じたり、いろんなものが心に押し寄せながらの長い長い歩みになりました。移動先のベッドに荷物が移される間食堂のイスに座って待ち、またえっちらおっちら歩いて、ようやく退院まで過ごすことになるベッドに辿り着きました。


これまで経験した通り強い鎮痛剤をやたらと使うことはできませんが、基本的に痛みは取り除いて過ごすのが現代のがん治療の原則です。背中のカテーテルには鎮痛剤の入った袋がつながっていて、患者がボタンを押すとそれが注入される仕組みになっています(一度押すとロックがかかって30分間は注入できなくなる)。といっても私の場合もうそんな軽い痛み止めは効かない体になっていたので点滴での痛み止めが注入され、ようやくある程度の行動ができるようになりました。


おしっこがしたくなったのでトイレに行きました。すると「ゴボゴボ」と音がしてなかなかおしっこが出ません。うわ何これ怖い、と思ったらおしっこが出てきてほっとしました。やはり尿道カテーテルを挿入されるとただでは済まないようです。その後も二日ぐらい、おしっこしようとしたら空気しか出ずぎえー怖い!となったり、ちょっと血尿気味のおしっこが出たりと恐怖体験が続きました。


午後になり、私は緊張しながら両親の面会を待っていました。昨日の怒りをそのまま抱えこむ、という選択肢もありましたが、どうしても一言言わなければ気が済みません。二人が顔を見せると私は痛みを我慢し無理矢理体を起こして、父に「話がある」と切り出して詰問しました。「昨日俺のことを死んだ人と比べたよね?俺はこれから生きようとしてるのになんであんなこと言うの?」父は瞬間湯沸かし器のように怒り出しました。アスペルガー発達障害の疑いが強い人には”絶対に悪びれない”という特徴があります。自分の言動や行動を意識したり記憶したりしないので、振り返って罪悪感を持ったり、しまった何かしでかしてしまったとは少しも思わないのです。子供の喧嘩のように、攻撃されたと思ったら攻撃し返す。これが彼らの人間関係上の行動原理なのです(私の家庭の場合父だけでなく母も全く同じです)。父は「そう来ると思って待ってたんだ」等わけの分からないことを言いだしたり帰るそぶりを見せたりして私に”勝とう”としてきます。私は「実家とこの家とどっちが大事なの?」と問い詰めたりしました。母は一応仲裁的なことをわめきますが、彼女も普通の人ではないので的外れな、なんの効力もないことしか言いません。父は怒りながらも、術後に医師から聞かされた家族への説明を私に伝えなければとは思っていたようで、ひとまずそれを聞くことになりました。そして一段落してから、改めて先ほどの話をしました。父は少し冷静になったらしく「俺は人の気持ちが分からないし昔から思ってもいないことをついしゃべって失敗ばかりしてきたんだ」とこぼしました。以前から分かっていましたが父はサイコパスの気があり、口先だけは達者で言うことがころころ変わり嘘ばかりつきます(そのためそとづらだけは良く他人からはすぐ好かれます。ちなみに父が慢性的な嘘つきなのを見抜いているのは私だけです)。私は父に少しは自覚があることに驚き、自覚があるなら仕方ないなと思いました。彼らは私たちとは脳機能が異なります。常識や考え方、感じ方が”こちらの世界”とはずれた、違う文化圏の人なのです。私は腑に落ちたというか、あきらめがついた気がして父に謝り、父も「おかしなことは言わないよう気をつける」となり、この件は終わりになりました。


手術の前に私は「術後の医師からの説明の時に取り出した患部を見せられるだろうから写真を撮っておいて欲しい」と頼んでいました。父は確かにそれを実行していましたが、持ってきたのはなぜか証明写真より小さいサイズの写真でした。「普通のサイズの写真もあるけど強烈だから今日はこのサイズを持ってきた」と父は言いました。意味の分からない妙な気を回しておかしな先回りをしようとするのも彼らの特徴です。小さな写真を手に取ると、幅広で横長の赤みをおびた肌色の帯に赤く丸い腫瘍があり、その横にはひものような盲腸が見えました。私は「いや、これは憎い敵だからしっかり見ておかないと」と言い、明日普通のサイズの写真を持ってくるよう頼みました。


夜になり、外科病棟を五周ほど歩いてみたら息が切れました。退院までに、以前と同じく日常生活を送れるほど体を回復できるのか不安に感じながら、この日は消灯時間になりました。

4月20日 手術日

朝05:30起床。病院の起床時間は06:00で手術は9:00からの予定ですが、注腸検査をしたあとは翌日もまだ腸内の残留物が出ることが経験上分かっているので早起きをしました。水を飲んでいいのは07:00まで。手術待ちの絶食はすでに20日目です。二、三回トイレに行き、術後に別の部屋へ移れるよう荷物を完全にまとめ、病院から借りているパジャマの「病衣」から浴衣のような手術着に着替えます。上半身は下着なし、下半身はパンツをはいたまま、足には血栓防止の白いストッキングをはきます。手術部位はへそ上から下腹部にまで及びますが、いわゆる剃毛はありませんでした。あとで聞いたところ皮膚トラブルが怖いのでやらないんだそうです(入院中にバリカンらしきもので剃毛されてた人もいたのでケースバイケースだとは思いますが)。実は入院して数日で手術を受けられると思っていたのであらかじめツルツルにしていたんですが、まさかあんなに何週間も待たされるとは…。まぁもしかしたらそのおかげで少しは手術しやすかったかもしれません。パンツをはいて手術に向かうのも意外でしたが、これは患者の心情を考えての措置だったんだと思います。手術は全裸じゃないとできないし、意識が戻ったら尿道カテーテルを挿入されてて、パンツはビニール袋に入れられて荷物の上に置かれてましたから。ちなみに入院してからこの日までの20日間、シャワーも入浴もしていません。毎日蒸しタオルで体を拭いていただけです。こんな、あまり清潔とはいえない状況でも、手術は行われるんですね。


08:00を過ぎるともうすることがなくなり、横になってテレビを見ながら両親を待っていました。08:20ごろ両親が来てちぐはぐな会話が始まりましたが、アスペルガー発達障害の彼らとこの緊張する段に噛み合わない会話をするのもだんだんうんざりしてきて、私は彼らに背を向けて無口になり「早く手術時間になれ」とすら思っていました。そして08:50ごろ看護師が迎えに来て、一度トイレに行ってからいよいよ手術室へ出発となりました。父が突然「よし頑張れ!」と何かをけしかけるような声を出しましたが、なんだか場違いで戸惑ったのを覚えています。両親は食堂で待つことになり、私は看護師とエレベーターに乗るため廊下で二人と分かれました。エレベーターの前で振り返ってみると、食堂の前で私を見つめているのは母だけでした。父はそそくさとどこかに座っていたんだと思います。私は母に軽く黙礼をして、エレベーターに乗りこみました。


8階の病棟から3階の手術室に降りてきて、まず通されたのは待合室でした。今から手術を受ける患者が一同に集められています。すると一人の看護師が私を見て声を立てて笑いました。どうやら自分の受け持つ患者と私の顔が似ていたようです。どこにでもあるような顔の私にとってこれは子供の頃からよく経験してきたことでしたが、毎回毎回不愉快ですし、生死のかかったこの場面で赤の他人に勝手に笑われるという有様はいかにも私ならではだなと嫌な気分になりました。またこういうシリアスな場面で人のことを平気で笑える看護師に怒りも感じ、頭の中で「外科の看護師はサバサバして怖いですよ」という消化器内科の看護師の言葉を思い出していました。


待合室の大きな扉が開くとそこは青一色の広い廊下でした。これから手術を担当する人たちがわっと動き回っています。それを見て私は「ああ、これは単なる作業なんだな」と悟りました。手順に従い作業し、それを終えるとまた次の作業に移る、IT派遣でさんざん経験したあの気配がそこにはありました。手術というと複雑で崇高なイメージがありますが、作業レベルにまで単純化・平均化しなければ誰でもやれることではなくなるし、きっとそういうことなんだと思います。


青い廊下はいくつもの手術室につながっています。私はそのうちの一つの前に通され、名前のダブルチェックを受けました。付き添いの看護師は挨拶もなくいつの間にか姿を消し、私はガラス窓の扉を通されて手術室へ入りました。手術室のライトは円形ではなく六角形の集合体で、スタートレックの大道具のようでした。私は手術台の上に乗り、横になりました。眼鏡が外され、せかせかと手術の準備が進められ、手術着をはだけられると指や胸に計測機器がつけられます。次に右を向いて横になり背中を見せるよう指示され、そうすると脊髄にカテーテルが通されて硬膜外麻酔が始まりました(あまり痛くなかったです)。そして麻酔科医の「ぼんやりしてきましたか?」という問いかけに「そうでもないです」と答えたあと、目が覚めるとそこはすでに手術室ではなく病室でした。


子供の頃の扁桃腺除去手術で全身麻酔は経験していますが、全くなんの前触れもなく意識はなくなるものですね。まぁだから全身麻酔は楽でいいんですが(局所麻酔の手術なんか絶対無理…)。しかし、本格的に辛い日々が始まるのはここからでした。目が覚めてすぐに、強烈な悪寒が始まります。寒い。全身がブルブル震えます。発熱です。私はてっきり体温を下げて手術したからだろうと思ったんですが、実はこういう発熱はカテーテルからの感染症で起きることがあり、特に一週間以上つけられていた首のカテーテルはもう必要なかったので、この時に外してもよかったんだそうです…。看護師が体温を計りますが38度を超えています。寒いと言うと電気毛布がかけられ、次第に体温が感じられるようになり”暑くて寒い”という状況になります。すると今度は血流が一気に戻って来たのか、全身がしびれてきました。


両親は目が覚めてしばらくすると現れましたが、全身を震わせて悪寒としびれに耐えている私に父はこう言いました「兄もこうだった」。兄、というのは私の兄のことではありません。父の兄のことです。父は実家が大好きで、自分の家庭は壊しておきながらいまだに”実家の子供”の気分でいます。そして一番の問題はその父の兄は、腎臓癌で去年亡くなっているのです。手術を終えこれからまた生き始めようとしている人間を、似たような病気で死んだ人間と比べる。なぜこんなデリカシーのない言葉の暴力を投げつけてくるのか。これほどの不愉快さ、悔しさ、憤りは経験したことがありません。でもこの時はろくにしゃべれる状態ではなかったのでその思いを伝えることができず、私はこの怒りを一晩腹に抱え、翌日のこのこと面会に来た父を怒鳴りつけることになります。


体温は全く下がらず体調は最悪ですが、母が「そろそろ帰っていい?」と言い出しました。べつに疲れ果てたからとか、面会時間がもうすぐ終わるからとかいう理由ではありません。この頃時刻はまだ15:00過ぎ、彼女にとっては目の前で苦しむ息子を見守るより「そろそろ夕飯の買い物をしないと」という毎日の習慣の方が優先度が高いのです。そういう頭脳で生きている特殊な人なのです(ついでにいうと食糧をまとめ買いして計画的に使うということもできません。母はあくまでも毎日買い物に行くことにこだわります)。私はうんざりして「お好きに」とつぶやき、二人はあたふたといなくなりました。発熱はおさまらず、体温は39.5度に達しました。そしてだんだん、手術すればおさまると思っていたことが再び始まりました。腹痛です。


看護師を呼ぶと痛み止めの点滴が始まりましたが全然効きません。「術後だしこういうものなのかもしれない」私はそう思い、我慢を始めました。ちょうど来た看護師にバッグの中から耳栓を出してもらいます。また音と光を遮断して痛みを耐える作戦です。この頃になると意識がはっきりして私はある異変にも気づいていました。事前の説明では手術後はリカバリールームという、集中治療室のような部屋で過ごすと聞かされていました。でも、リカバリールームなら聞こえてこないはずの方向から、ナースステーションの雑談するやかましい声が聞こえてくるのです。私はなぜか術後に、差額ベッドですらない一般病室に通されていました。とにかく看護師の声がうるさく、耳栓をして私はじっとしていました。


腹痛はおさまりません。それどころかどんどん痛みが強くなっていきます。私は看護師を呼んでそう訴えましたが、看護師は、先生と相談するけどさっき痛み止めを使ったばかりだからどうにもならないと冷たく言い放ち去っていきました。「外科の看護師はサバサバして怖い」消化器内科の看護師の言葉が蘇ります。私は苦悶の表情を浮かべ、奥歯が割れそうなくらい噛みしめて一時間ほど痛みを我慢していました。するとそこに先ほどの看護師が来て、生理食塩水の点滴を点滴台に追加し、私の顔も見ずにさっさと行ってしまいます。「せめて声でもかけてくれればいいのに」私は思いました。そしてさらに我慢を続行しますが、もう腸重積の比でないくらいの異常な腹痛になり、我慢も限界に達しました。私はナースコールを押しました。痛み止めを使ったばかりなのは分かっています。具体的にどうこうしてくれなくてもいい、せめて話を聞いて欲しい。…でも看護師は来ません。一秒が長く長く感じられます。いくら待っても看護師は来ません。ナースステーションの笑い声は病室に響き渡っています。腹痛は強さを増し、私は奥歯を噛みしめ、看護師への様々な不信感が渦巻き…頭の中で何かがぷちんと切れました。怒りです。ベッドの上で私は猛烈に激怒しました。ナースコールのボタンをぶん投げ、ベッドの柵をめちゃくちゃに殴りつけました。手術の傷口が開こうがどうなろうがもう構わないと本当に思い、暴れまくりました。


そのうち上級っぽい看護師が来たので私は激烈に怒鳴りつけました「こんな患者はいつも相手にしてるから適当にあしらっとけばいいと思ってるんだろ!見え透いてるんだよ!」彼らの振るまいを見て、実際そう思っていました。騒ぎを聞きつけて、医師も二人やって来ます。私は医師に言いました「怒っている方が痛みを忘れられていいですわ!私はね、こんな理性をなくす人間じゃないんですよ!」医師は言いました「存じております、手術の説明の時も理路整然とされていて…」医師も驚いていたようでした。私は、17:30ごろから異常な痛みに苦しんでいること、傷口の痛みではなく腸重積のような内部的な痛みであることを伝えました。すると先ほどの看護師が横から顔を出して言いました「それで先生と相談して痛み止めを追加しようという話になってたんですよ」いやいやそんなの聞いてないから。とにかく急きょ新たに痛み止めが使われることになり、皆は引き上げていきました。そして先ほどの看護師がやって来て、痛み止めの追加を始めました。


看護師は「無理を言われても痛み止めはやたらと使えない」という旨のことを言って私をモンスター患者扱いしてきましたが、私は「そうじゃない」と言い、また怒鳴りました「私は異常な痛みがあることを先生に伝えて欲しかったんだよ!生食(生理食塩水)入れてさっさと行っちまわないでさあ!」さらに私は続けました「あんたは看護師に向いてないね!人間味がない!」看護師は淡々と「確かにないかもね」と言いました。私は続けます「ロボットの方がましだよ!(ソフトバンクの)ペッパーの方がまだましだ!」そして無言になって去っていく看護師の背中に私は言いました「心が痛いわ!心が!」。


それから、点滴が効いてきて腹痛は少しずつおさまっていきました。でも、この日はまだ終わりません。この病室はナースステーションの隣にある監視しやすい、差額ベッドでない一般病室です。つまりここは吹きだまりのような場所で、問題児が一人収められていたのです。それは認知症の爺さんでした。いつの間にかナースコールの連打が始まり、それは消灯時間になっても夜中になっても終わりません。母ちゃん!という叫び声が耳栓を通して聞こえます。とし子!という叫びも聞こえてきます。今度は、痛い痛い痛い!という叫びです。水が欲しい!とも叫びます。看護師も”体調がいいのに騒いでいる”のが分かっているので放置のまま誰も来ません。ナースコールも、爺さんが押すと同時に打ち消されます。叫びは一切止みません。「大手術した日の夜がこれか…」いかにも自分らしい不運さに、私はやりきれなさを感じるだけでした…。


あとで改めて聞いた話ですが、手術は3時間予定のところが5時間かかり、大腸は30cm切除、リンパ節郭清も行い、腫瘍の大きさは5cmで、やはり周辺のリンパ節に腫れがあったそうです。したがって血液内科の医師の見立て通り、今のところはステージ2となります。

4月18日と手術前日

これを書いているのは5月3日。手術とその後の回復期間を終え4月30日に退院し、すでに家に戻って来ています。腸の調子は悪くなく、手術跡と腹筋はまだ痛むけどどこかがことさら痛いということもなく体調としてはそこそこ元気なのですが、これから化学療法が待っているのを考えると今が一番元気なんだろうなぁという思いがしてやはり気が滅入ります。昨日改めて「大腸 リンパ腫」で検索してみたところ、血液内科の医師がなぜ私のリンパ腫をびまん性大細胞型B細胞リンパ腫(DLBCL)と推測したのかなんとなく分かりました。大腸に発生するリンパ腫は大体がDLBCLなんですね。でも”大体”なだけで他のリンパ腫の可能性もあり、そもそも大腸にリンパ腫が発生すること自体がかなりまれなことらしいので(消化管リンパ腫は大体が胃に起きる)、まだまだどうなるか分かりません。私の人生は普通の人が陥らない”残り数%”の部分にはまり続けてきた不運な苦悶苦闘の連続だったので、本当に何が起きても不思議ではないんです。もし今すぐ頭に隕石が直撃してもべつに驚かず「まぁ、私ならそういうこともあるよな」と苦笑いするくらいの残念な人生だったので…。以下回想。


4月18日
ボルタレン座薬を一日3回、点滴で向精神薬ソセゴンを一日1回使い腸重積の凄まじい腹痛を24時間ただただ耐えていた頃です。連日の使用で鎮痛効果も減少しボルタレンはよくて5時間、ソセゴンは3時間しか効かなくなっていました。そこで少しでも痛みを減らすため、カーテンで日光を遮り耳栓をして光や話し声の刺激を受けないようにしてじっと横になっていたり、逆にひたすら音楽を聴いて気をまぎらわせたり、腰痛ベルトをお腹にきつく巻いて腸や内臓の動きを抑えようとしていました。


確か17日の早朝のことだったと思いますが、男性看護師が「夜中にボルタレンを使ったので今日使えるのはあと2回です、ソセゴンは昨日は使いましたが昨日は昨日なので今日は使いません」という旨のことを言ってきたので激怒し、緩和ケアの原則を持ち出して詰問したのを覚えています。患者は人間です。痛みに耐えるのは機械的にできることではありません。鎮痛薬の回数制限をしたり、使用薬を制限したりするのは医療者側の事情で、それを押しつけられても今痛みを耐えている者としては現実的に受け入れられるものではないのです。といっても私はモンスター患者ではないので、規定であるボルタレン一日3回まではきちんと守り、その上で補助的にソセゴンを使えることになりました。手術後にもまた経験しますが「自分の痛みを他人は理解しない」ということを文字通り痛感した出来事でした。人間、痛い時は痛いと、表情や仕草も使ってやや大げさにでもアピールした方がいいです。じゃないと他人に痛みは伝わりません。


19日
手術前日。朝、消化器内科の医師が来て「おととい昨日とお腹が痛いようなので念のため腸重積が起きていないかCTを撮ってください」と言い出しました。おととい昨日じゃねぇだろ一週間だろボケがと思いましたが、そこは口に出しませんでした。間違いなく腸重積も起きていますがそれも言いませんでした。彼にはすでになんの期待感も抱いていないからです。一見心が広い人というのは、実は誰にも期待していないものです。


午前中に、荷物を片づけCTを撮ったあと消化器内科の病棟から外科病棟へ慌ただしく転棟になりました。消化器内科のベッドは窓際で眺めは良かったけど、同室の患者は癇(かん)にさわる奴ばかりでまぁ酷かった…。野太い声で生活音をまき散らしみみっちいことを異常に気にする爺さん、常に機嫌が悪くピリピリしてて看護師に俺だけ特別扱いしろと文句を言うおっさん、面会に来る女性に何時間も嫌味を言い続け車の鍵を取り上げて帰れなくし暴力沙汰を起こすおっさん、口を開けるたびにピチャって音を立てるこれも野太い声の爺さん(間違いなくクチャラーだけど幸いだったのは栄養点滴で絶食だったこと!)。なんでただでさえ若年齢で珍しいがんにかかる苦しい状況なのにさらに周りの人間に苦しめられるのか…。暴力おっさんの時なんか私がタイミングを見計らって看護師に危険な状況を知らせたりナースコールして暴力行為を止めさせてなかったらあの女性は一体どうなってたか…。人間界には澱(おり)が多すぎる。まだ死にたくないですが、こういう嫌な人間に遭遇するたびに、この世にいることがうんざりしてきます。


外科病棟は消化器内科病棟と同じ階にあります。消化器内科の看護師はわりと人間味のある方が多かったんですが、転棟の際に「外科の看護師はサバサバして怖いですよ」と言われました。そして実際会ってみるとその通りで、のちに私は彼らの冷たさに二度激怒することになります。


私には分かりきっていたことですが、CT撮影の結果また腸重積が起きて盲腸の部分が胃の下まで移動していることが判明しました。道理で一週間激痛に苦しめられたわけです。消化器内科の医師がボンクラだったせいでこんな目に遭ったわけですが、腸の位置を整復しても二日もあればまた移動してしまう状況ではあったので、手術前日に事態がはっきりしたのは逆に幸いだったのかもしれません。というわけで午後になって急きょ二度目の注腸検査が行われました。肛門からバルーンとガストロ液が注入され、外科の医師が私のお腹を手でぐいぐい押して腸を移動させていきます。わりとスムーズに腸は元の位置に戻り、注腸検査は終了となりました。


前回と違って、問題はここからでした。注腸検査のあとは腸内のガストロ液を排出するために何度も何度もトイレに行くことになります。前回は腕からの点滴で、消化器内科病棟だったため病室にトイレがあり、トイレに行くにはまだ楽な環境でした。でも今回はバッテリー付きのポンプ二台を使っての首からの点滴で、外科病棟のため病室にトイレはありません。さらに注腸検査をしたため、気づいた時にはポンプのバッテリー残量はほとんど残っていませんでした。けたたましいバッテリー警告音を鳴らしながら、自由に動かない点滴台を押し、私は空いているトイレを探して外科病棟を駆けずり回ることになったのです。トイレに駆け込み、洗面台の下のコンセントに電源ケーブルを差しこんでバッテリーを静めながらやっと便座に座る、これが繰り返されること数時間…焦りと苦しさ、なぜこんな目に遭うのかという理不尽さ。辛いだけの人生です。


トイレの合間に、麻酔医からの説明や手術当日の説明を受けました。てっきりこのベッドで退院まで過ごすと思っていたら手術後は別の部屋に移ると聞かされ、なんだよと思いながらまた荷物を片づけたり、夕日に向かって「助けてください」と拝んだり、術後に痰を出すための深呼吸の練習をしたりして、19日は終わっていきました。またこの日はコミックマーケットの臨時の辞退受付の受理がメールで届き、7年ほど続けたサークル活動はこれをもって休止となりました。

4月12日〜17日 手術についての説明と激しい腹痛

4月12日に外科の医師から手術についての説明があって、20日の09:00から手術になりました。小腸の一番後ろの部分〜上行結腸の途中までを切除して腫瘍除去とリンパ節郭清を行い小腸と大腸をつなげるそうです(そのため盲腸にかかる心配はなくなる)。その後、経過が良ければ一週間から10日で退院。ただ、大腸癌ならこれで一段落なんですが、私の場合これでまだスタートラインに立つ手前の段階です。大腸から取りだした腫瘍を外注の病理検査に出して、リンパ腫としての型がはっきりするまで4週間かかり、リンパ腫の治療を始められるのは順調にいっても6月からになりそうです…。月単位で進行する病気とはいえ一番大きな腫瘍はなくなり、ガリウムシンチ検査で他の部分にリンパ腫の兆候はなかった(つまり今のところガリウムシンチ撮影ではっきり映る大きさのレベルのリンパ腫はない)のである程度時間が経っても大丈夫だとは思うんですが(外科の医師も大丈夫的なことは言っていた)、細胞レベルのリンパ腫は必ず体内にある状態なのでさすがに嫌な感じはします…。


今一番苦しんでるのは11日の夜から復活した腹痛で、腸重積がまた起きているんでしょうが医師も手術前だからなのか放置状態で何もしてくれず(消化器内科の医師は外科に渡した患者だからともう積極的な姿勢はなく、外科の医師も手術説明の時に「レントゲンを撮りましょう」と言ったのに結局それっきり)、痛み止めを飲んで24時間ただ激痛に耐えるだけの、これまで経験したことがないくらいつらくみじめな日々が続いています。濃縮された10人分の腹痛がいつまでも終わらないと思えばどういう痛みか想像がつくかもしれません。腸重積で患部が移動してしまったら腹腔鏡手術かどうかも怪しくなるはずなのでせめて現状だけでも把握して欲しいんですが…。

手術へ向けての準備期間が続く

注腸検査の腸整復でお腹の痛みがだいぶ良くなったなと思ったのもつかの間、だんだんまたへそのあたりの痛みが復活してきて困っています。何より「一度良くなっているだけに医師が真剣に取り合ってくれない」状態でまいってます。看護師には問診の度にお腹が痛いお腹が痛いと訴えているので看護師の間にはもう情報が行き渡ってるんですけどねぇ…。消化器内科の医師の株がどんどん下がっていきます…。以下テキストファイルの記録より引用再編。


4月7日

消灯後に痛み止めを入れてもらったあとも夜中中お腹が痛くて1時間おきに目を覚ましては眠る状態。外科の医師が来て触診、右腹の患部をさわられると痛い。昨日は吐き気もあったと言う。もう24時間お腹が痛い状態、吐き気もある。


消化器内科の医師が来た。吐き気のことは伝えられなかった。
消「お腹の痛みは腸重積による詰まりで、ガスが移動しづらくなっているからではないか」
私「お腹の痛みは手術で解消されるか?」→消「そう思う」
私「次から次にガスが発生するのは?」→消「なんとも言えないが、普段は気にならなかったガスが腸重積で気になっているのかも」
消「レントゲンではガスは消えている(レントゲン上は問題ない、ということか)」


注腸検査及び腸整復を8日午後に行う(外科から申し出があった模様)。薬剤師の人が来た。痛み止めのセソゴンは10〜20分で効いてきて3〜4時間効き目がある。6時間インターバルをあけて次のを使える。18:30頃からへそより上部の非常に激しい腹痛に苦しむ(13/10)1時間以上続いた。

痛みに加えてだんだん吐き気が出てきたので来週と言われていた注腸検査の予定が早まりました。


4月8日
24時間とてつもない腹痛に耐えていたので心身共に疲れ果てていました。

05:00起床、昨日は痛み疲れたのか20:30ごろ入眠。時たま起きて時刻を確認したりしたが8時間ほど眠った。06:05痛み止めオーダー、06:18注入開始。昨日の夜からへその上部が耐え難い痛み方をするようになってきた(13/10)。痛みに耐えるため、とにかく音や光の刺激を受けないよう左を向いて寝ながら注腸検査の時間を待った。時おり激痛にのたうつ状態


14:00注腸検査で腸の位置の整復に成功。回盲部が上行結腸までめりこんでいた。腹部を手で押されるのに合わせて息を吐くのがコツだった。腫瘍があるためその部分は造影剤が映らなかった。医師は回腸に造影剤が映るまでやりたかった様子。ただ腫瘍はあるのでいつまで今の位置がもつかは分からない、経過観察。

この時はバリウム注腸ではなく、より粘度の低い「ガストロ注腸」というタイプでの注腸が行われました。腫瘍が腸をだいぶふさいでいるのでバリウムだと閉塞が起きたりして危険なんですね。腸にガストロと空気を注入して圧力を加え、外科の医師がX線で腸の映像を見ながら手で私のお腹をぐいぐい押していきます。服の袖のように折りたたまれてしまった大腸を、外から手で押して正しい位置に戻すのです。最初は押されるのが痛くて息を止めて突っ張ってたんですが、押される時に息を吐くと楽なことに気づいてからはわりと余裕でした。結果としては成功で、胃の下あたりまで移動してた回盲部(盲腸の少し上の部分)が正しい位置に戻されました。成功してなかったら腫瘍の除去はお腹を大きく切る開腹手術になってて、腸もかなりの部分を失ってたはずなので良かったと思います。


4月9日
注腸検査後から9日の日中まで、注入した造影剤を排出するため何度も何度もトイレに行くことになり大変な思いをしました。この時突き上げるような腹痛があったので嫌な予感はしてたんですが、やはり注腸検査でおさまったと思われた腹痛は徐々に復活してしまいます。

07:35外科の医師が来た
外「どうですか具合は」私「便が出る前に痛くなります」
外「でも以前のような痛みではない」私「はい」
私「あと便の回数が異常に多いです」外「昨日入れたもの(造影剤)が出きっていないのと、これまで渋滞していた部分に引っかかっていたものが出ています。全部出きればおさまると思います」
私「なるほど」


14:00病室ベッド上で消化器内科の医師と看護士(柔道選手みたいな人)で中心静脈カテーテル開始。思いのほか難航、強い力で首をぐいぐい押されながら、麻酔(結局2回行った)もあまり効いていない中で切開されたり(?)明らかに麻酔の効いていないところを二箇所も縫合されたりで非常に痛く、苦しみのたうつ。顔に保護シートをかぶされて処置されたため暑さと痛みと恐怖で大汗をかき右耳が汗で水没したりした。さらに首が右に傾いた状態のままシールで固定されてしまい身動きが非常に不自由になった。一度横になると起きられなくなったり、顔を上に上げられなかったりした。21:00夜勤の看護師にシールの貼り直しをリクエスト、首を左に曲げた状態で改めて貼ってもらい動けるようになった。

この日は「中心静脈カテーテル」の処置が行われました。大腸の手術をするまでは絶食(最後にものを食べたのは3月31日の夜)なんですが腕から入れる点滴では栄養状態を保てないので、より太い血管つまり首の静脈からしっかりした栄養点滴をするのが目的です。そんなにたいしたことはないだろうと思っていたらまぁ下手くそで、50分くらいずっと痛みでシーツをかきむしっていました。最後の方は明らかに麻酔なんて効いてない首の皮膚を二箇所も縫われるという拷問でもう中世の手術かと…。さらに首を右に曲げた状態のまま看護師に首をシールで固定されてしまい、もう全く通常の動作ができなくなるというおまけつき…。医師の助手をするくらいなのでリーダークラスの看護師のようなんですがまぁお粗末な方でした…。汗で水没して右耳が聞こえないと言ったら、看「綿棒はありますか?」私「あります、そこの引き出しの中に」看「じゃあとで使ってください」セルフかい…やってくれるんじゃないんかい…。何もかも酷かった…。


10日
絶食で先週から体重が2kg落ちました。腹痛が復活しつつあります。

両親は少しずつコミュニケーションに協力的になってきている。特に昨日「お父さんは早く帰りたいみたいですよ」と私に言われた父は反省したのか今日は積極的に会話に加わってくれた。昨日の会話では母は退院後に一緒に旅行に行くことを楽しみに(?)しているようだ。手術後に家族向けにあるはずの説明がとても大事なのでよく聞いておいて欲しいことと、前開きタイプの肌着がイトーヨーカ堂にあるらしいのでもしあったら買ってきて欲しいと頼む。痛みレベル9/10の腹痛が不定期に起きて30秒ほどでおさまることは看護師は把握した模様。

両親は普通の人ではないので、とにかく当たり前の人間の言葉を持っていません。昨日は、過酷な処置でぐったり横になる私を前にして、二人は全く無言のまま何分も黙りこくっていました。「大変だったね」とか「頑張ったね」と声をかける思考そのものが彼らにはないのです。あまりにも何も言わない様子が私には逆にシュールすぎて面白くなってしまい、二人にその旨を言うほどでした。それで父はいつものようにベッドから少し離れた場所にそそくさと椅子を用意して座りこんでいたんですが、私が母と話しているうちにあくびをしたので「早く帰りたいようですよ」と嫌味を言ってやりました。父はこれが結構こたえたようで、10日からは積極的にコミュニケーションしてくれるようになりました。


11日

夜中からへその下側に妙な痛みがあり気になる。


09:30消化器内科の医師が来た。
消「ヘモグロビン値10.2で貧血はやや改善」消「手術は来週と聞いている」
急激な腹痛については話を切り出せなかった。あまり話題にしたくないか問題視していないようだ。


13:45昼頃から5/10くらいの腹痛がずっと続いている。トイレに行っても便は出ない。つらい。17:06下から突き上げるような激しい腹痛10/10、一分もかからずおさまりはしたが完全に注腸検査以前に戻ってしまった感がある。17:20夜の薬を飲む→17:40激痛13/10すぐにはおさまらない、痛み止めをオーダー。何かを飲むと腹痛が出る、注腸検査以前のパターンに戻ってしまった。17:50痛み止め注入開始。次に使えるのは8時間後の02:00頃。18:00効いてくる。

腹痛のパターンが完全に元に戻り、ついに痛み止めを使うことになってしまいました。この腹痛は消化器内科の医師からは”よく分からないけどー腫瘍の方が大変だしぃ”というふわふわしたスタンスのまま棚上げされ続けているので、上手く立ち回らないとうやむやにされかねません。痛み止めを使ったことで記録には残るので、それが彼に届けばいいんですが…。明日は外科の医師から手術についての説明がある予定です。