ふとんのなかから

びまん性大細胞型B細胞リンパ腫にかかったあとだらだらしている人のブログ

思想処刑”かぐや姫プログラム”

先週「かぐや姫の物語」を観てきました。エンターテイメント性は「パタリロ女童」と「天皇アゴ」の二つのみ。一点の曇りもない「ただのかぐや姫の物語」。ハリウッド的ディズニー的な救いもなく、当たり前のように月に帰っておしまい。私を含め他の観客も「え?なんかあるんじゃないの?」とエンディングが終わっても誰も席を立てませんでしたが当然なんにもなし。何なんだこの映画は…と見終わった当初は呆れ返りましたが、帰り道で「そういえば副題の罪と罰とは一体…」とつらつら考えるにつれこの映画の正体が分かりました。

地球という名の流刑地

この物語のかぐや姫は罪人です。罪は「自由を求めたこと」。自由といってもロックミュージシャンが「自由でいたいんだよ」と口にする類の自由とは桁が違います。かぐや姫は「鳥虫獣(とりむしけもの)のように生きたい」のです。人間社会の規範や倫理なんかクソ食らえ(かぐや姫が唯一受け入れた男性の捨丸はまさに鳥虫獣のルールで生きている人間で、目の前のかぐや姫のために妻子を捨てることに全く躊躇がなかったですし、かぐや姫が死ぬほど拒絶した天皇はまさにあの社会の規範そのものの存在でした)、できれば衣服なんか着たくもない(かぐや姫は異性を意識し始めた男の子の前で全裸になるのも全く平気でした)。とてつもないアナーキストです。もし月がかぐや姫を送りこむ時間と場所をちょっと間違えていたら、かぐや姫は伝説のヒッピーとしてアメリカ史に名を残していたでしょう。あるいはスーパーフリーダムガンダムを運転して宇宙を暴れてたかもしれません。それほどまでにかぐや姫は自由というものに取り憑かれている。そしてこの女性アナーキストを十数年かけてじっくり思想的に処刑する物語こそがこの映画の正体なのです。


まず月側について考えてみますと、月社会は超能力か科学かは分かりませんが凄まじいテクノロジーを持っています。人体改造・記憶操作・時間操作・空中浮遊・物質変換・生身での宇宙移動、何でもあり。そして地球の現地人を利用すること(例えば媼が乳が出るよう改造するなど)に一切ためらいがありません。人権意識ゼロ。おそらくガチガチの全体主義か管理主義の社会なんでしょう。そんなとこではかぐや姫のような自由主義者は絶対許されないわけで、もし同様の「リベリオン」の世界ならかぐや姫は映画開始五分で火あぶりになってるでしょうが、月社会は絶対に命は奪わないのです。生かさず殺さず、ただもうびりびりいたぶる。かぐや姫が肉体的に死ぬレベルの絶望を味わったら、その絶望の記憶は保持させたまま時間だけ戻す。意地悪すぎる。


ではこの「思想処刑”かぐや姫プログラム”」がどんなものだったのか映画の内容を追いながら見てみましょう。まず「地球に行って鳥虫獣のように自由に生きたい」と常日頃から思っているかぐや姫をとっ捕まえて「そんなに地球に行きたきゃ行けばいい」と宣告し、かぐや姫をフィギュアサイズにして地球に送ります。そして翁にフィギュアかぐやを発見させますが、ここでかぐやをお姫様フィギュアにしていることで翁に「姫として育てよ」と刷り込ませているのがミソ。かぐや姫は姫という、社会規範の奴隷になんかなりたくない、これから全く逆の世界で生きられることを期待しているのに、この時点でもうかぐや姫の望みは叶わないことが確定してしまいます。つまり思想処刑はすでに始まっているのです。


そしてかぐや姫子供時代。ここでかぐや姫は近所の子供達にタケノコとあだ名をつけられ、まさに鳥虫獣のように自由闊達に生きます。が、これはいわゆる一つの「いったん上げてから落とす」というやつで、かぐや姫の人生はここで理想とする絶頂期を迎え、あとにはひたすら苦悩と絶望の日々が待っています。悲しいけどこれ処刑なのよね。かぐや姫の成長が異常に早いのは「子供時代の良かった頃の記憶を留めさせたまま大人にさせる」「精神は子供のまま体だけ大人にさせる」ことを狙っているのでしょう。現に大人になってからかぐや姫の成長スピードは遅くなります。


では次にかぐや姫姫修行時代。ついに自由とは無縁の社会規範の中にぶっこまれます。地獄開始。かぐや姫もあれやこれやと抵抗しますが、翁が「良かれと思ってやっている」のが最大の障害でどうにもなりません。悪い人は誰もいない、眉を抜くのもお歯黒を塗るのもみんな「ごく普通のこと」で、みんなごく普通のことをかぐや姫に望んでいるだけ。しかしかぐや姫はとにかく自縄自縛で勝手に苦しむばかり。全て月側の狙い通り。ちなみに子供時代に竹から金や衣装が出てきたのは月側の親切ではなく、この状況に追い込むためです。


五人の貴族達も基本的には悪人ではありません。社会に生きる、ごくありふれた人達。でも絶対に妻女房という枠に収められたくないかぐや姫は結果的に彼らを不幸にさせ、そのことがまた一層かぐや姫の苦悩を深めることになります。そして満を持してアントニオ天皇登場。元気があれば女も折れるとばかりにかぐや姫にすり寄ります(背後から)。前述しましたがこの天皇はまさにこの社会の中心であり、社会規範の象徴。ついに人間ではなく社会システムそれ自体がかぐや姫に「これに順応しておとなしくしろ」と迫ってきたのです。もうかぐや姫のベクトルとは180度逆で生理的に無理。ついにかぐや姫は思わず、あんなに行きたがっていた地球を拒絶し、月に助けを求めるという行動に出てしまいます。でも月には行きたくない。本当は地球にいたいのに。苦しみはどんどん増すばかりですが、これも全部月側の計略。


最後に一山、捨丸との再会が待っています。あなたとなら自由に生きられたかもしれないのに。そう言うかぐや姫の望みを、おいおい不倫だろという観客のツッコミも無視して捨丸はあっさり受け入れ、ついに念願成就となったかぐや姫は秘められたムーンパワーを炸裂させ、月からは逃げられないと知りながら二人は空を飛びます。言うまでもなくセックスの暗喩です。がしかし、あとちょっとでイケそうというところで、はい残念月必殺の時間戻しー。天皇かぐや姫のテンション下げさせて捨丸で一気に上げさせてから奈落に落とす。ここで月が捨丸の方の記憶はしっかり消去しているのが酷いですね。残酷です。


そして処刑総仕上げ。かぐや姫は地球での記憶を奪われ、心の中に深い悲しみはあるのにそれが何なのかは思い出せず、ただただ地球を見ては涙を流す、という廃人にされてしまいます。度が過ぎていたとはいえかぐや姫は自由が欲しかっただけなのに。恐ろしい映画です。

結局何なんだこの映画

でまぁ、こういう結論になると一番気になるのが「高畑勲はこの映画で何が言いたいのか」「何でまたこんな残酷物語を作っちゃったのか」。はっきりいって分かりません。個人主義を、わがままを肥大化させることとはき違えた現代日本人への警告なのか、全体主義は恐ろしいということなのか、あるいは全体主義は素晴らしいということなのか。一つだけ確かにいえるのは高畑勲は天才的にいかれているということです。タカハタ・イズ・ロック!シェケナベイベー!


最後に一つ気になることが。月の催眠攻撃はパタリロ女童には効かなかった上に彼女はそれを打ち破る方法を知ってたんですよね。あのタイミングで出てくるのはそうとしか説明がつかない。パタリロ女童は一体何者なんでしょうか。私は本物のパタリロなんではないかと思います。