ふとんのなかから

びまん性大細胞型B細胞リンパ腫にかかったあとだらだらしている人のブログ

ジャッジメント・デイから入院へ

3月29日
ショック状態が落ち着いてきて、時たま涙ぐむことはあってもそれ以上は進まなくなりました。以下テキストファイルの記録より引用再編。

13:00起床、おにぎり二個食べる。母がバナナを買ってきてくれると言う。安物スーパーについて話す。食後から腹痛(へそから下)があり横になる。便が出ればいいが。

内視鏡検査以来便はほぼ出ていませんでしたが、このあとまた血便が始まりました。28日から「生活改善のためごろごろするのはやめよう」と一日頑張ったんですが、二日目にして血便のためダウンすることになりました。

夕食時、父は自分の世界に籠もっている。NHKのニュースにのみ視線を集中させ、無言のまま食べ終わると席を立って去っていく。まるで機械のようだ。両親は精神的に普通の人ではないから根本的な変化はないのだろう、そこはつらい…。母に高額療養費の自己負担限度について話すが口頭では理解してもらえなかった。食後に母が買ってきたバナナを二本食べる。

毒親というのは結局のところ「発達障害サイコパスの人が親になった」という状態なんだと思います。そなわっている人間としての感情の種類がほんの少しだったり、自分と他者の違いが理解できなかったり、他者との距離感という概念を持っていなかったり、共感の概念を理解できなかったり、TPOを理解できなかったり、言葉を異常に軽視して平気で嘘をついたりする。一言でいえば人間を育てられる状態ではない人が親になってしまった、そういう不幸が私には生まれてからずっと降りかかっていたんだと思います。彼らのこういう性質は生涯変わらないでしょうから、和解したとはいえその面では寂しさも感じます…。彼らは普通の、感情の通い合う、おだやかな会話はできませんからね…。


その晩、飲み忘れた薬を入浴後に多めの水で飲んだところ、これまでにないような突き上げるような胃痛と腹痛に一晩中苦しむことになりました。明け方の突き上げるような胃痛は3月中ずっとあったので「ああこれは薬の飲み方が悪かったな」と思いましたが、そういうレベルのものではありませんでした。どうもガスのせいのようで、この症状は4月2日現在もまだ残っています。


30日ジャッジメント・デイ
ほとんど眠れず診察日になりました。この日は肺への転移があるかないか知らされると思い緊張してたんですが、実際は「大腸癌ではなく悪性リンパ腫だった」「腸重積が見つかってすぐ入院が必要」と想定外な方向にメチャクチャになった一日でした。ちなみに人生の岐路に立つことがあらかじめ分かっている日のことを私は「ジャッジメント・デイ」と呼んでいます。いわゆるターミネーター2の副題ですね(分かるか)。大学卒業認定者を発表する日のジャッジメント・デイは今でも忘れられません。私の名前は掲示板になかったのです…(単位が1足りず半年留年して卒業した)。以下テキストファイルの記録より引用再編。

血便がひどくなってきた。検査の結果、大腸癌ではなく、悪性リンパ腫と腸重積だった。胸部CT問題なし、肝臓CT問題なし。腫瘍は右側のつっぱる感じのする部分にあり、腸内をだいぶふさいでいて内視鏡は盲腸には行けなかった。大腸のリンパ節が腫れていて、その周りのリンパ節も腫れている。腫瘍のせいで腸重積が起きている。そのため入院しなければならない。

悪性リンパ腫は消化器内科ではなく血液内科の癌です。だから消化器内科の主治医の専門ではなく…診察時は「薬で治ります」と軽い雰囲気で説明され、一時は「なぁんだ」と安心しました(そのため同席していた両親も帰ってしまった)。でもその後、造影剤CT検査の合間にネットで検索して、すぐまたショックを受けました。簡単に治る病気なんかじゃないじゃないですか…大腸癌では転移がないっぽかった分、大腸癌の方がましだったとすら思います。正直、あと5年生きられるか分からないなと思っています。


ショック状態のまま造影剤CT検査の結果を聞きにまた診察を受けました。すると「腫瘍に引きずられて腸が重なり、腸重積が起きている」と少し慌てた様子で診断され、今日入院して欲しいと言われました。こっちはもうそれどころではないし、常識的に考えて準備がいるだろ何言ってんだと思い入院日を交渉し、明日の31日に入院することとなりました。


急なことになったので家に電話しました。電話口で父が「帰ってきていろいろ決めよう」と言ってくれたので「ああ、初めて先頭に立って家族としてのリーダーシップを発揮してくれるんだ」と期待して帰宅しましたが、べつに何か提案してくれるわけでも言葉をかけてくれるわけでもなく、テレビの前の布団に座ったまま「うー、うー(父は歯が悪いので「うん」と言わない)」と返事をするだけで私に視線を合わせることもありませんでした。やっぱり変わらずかとがっかりしながら母のところに行って話をすると母は私の腕をさすって「大丈夫だよ、大丈夫だよ」と言ってくれ、私は涙がこみ上げてきて少し泣きました。


それから夕食になって、せっかく母が「一緒に写真を撮ろう」と言ってくれたのに父が即座に「縁起でもない」と却下したりあまりにも相変わらずな態度で口論になりましたが、とくにこれといった変化も見られず、父はまたテレビを見に去ってしまいました。


その夜は血便が止まらなくなりました。消化器内科の主治医がなぜ「今日入院して欲しい」と言ったのか、理由はそれで分かりました…。


31日
トイレに行くたびにもうただ便器が赤黒くなるだけになりました。しかも出血のせいかすぐ便意が来て、母が「今日は早く風呂に入りな」と早い時間に風呂掃除をしてくれたのに結局明け方近くまで床につくことができず「この家で最後の夜かもしれないのにこれか」と不運な人生の、いかにも私らしい運命を呪いました。


朝9時ごろ起きました。母と少し話すと「これまでお前のことを気にしてはいたんだよ、どうしてこんなことになっちゃったんだろうね」と言い、顔をくしゃくしゃにして泣きそうになりました。両親は飼い犬が亡くなろうが、誰が亡くなろうが、悲しいそぶりすら見せてこなかった人たちです。人間的な感情を表すのはテレビの中の人のすることで台本があり、自分たちには関係ないと断言してきた人たちです。きっと自分の息子が死んでも泣かないんだろうなと、私はとうに諦めた人たちです。だから涙こそ流しませんでしたが、母のそういう姿を初めて見られて、何か胸のつかえが下りたような気がしました。


家の中の写真を撮って、母とも写真を撮りました。父の写真も撮りました。父も、昨日言ったことを反省したのか昨日のうちにカメラは用意していたようです(今どきフィルムのカメラです。こだわりではありません。私がこれまで彼らと一切会話をしなかったため彼らは現代のさまざまな事情を吸収できず、時代から完全に取り残されているのです)。


入院予定の時間に合わせて行動しながら「パソコン持ちこめないかなぁ」と思いました。癌患者にとって情報はまさに生命線です。スマートフォンはありますが、やはりキーボードと大きな画面がないと厳しい…そこで病院に問い合わせてみたところ意外なことにパソコン持ちこみOKということが判明しました(差額ベッド代の部屋だからかもしれません。大部屋になったらどうなるか…)。私の安物ネットブックにはWiMAXがついています。ハードウェアを有効にして12:00までに新規契約すれば間に合う…なぜ12:00かというと父はそのくらいの時間に自分だけ昼食を食べるからです(自分では一切用意しません。毎日作るのは母です)。食べ終わったら即テレビを見に行く人です。同じ食卓で話をするタイミングはこの時しかありません。焦りながら急ぎながら作業をしました。本当はもっと、この家での最後かもしれない時をのんびり過ごす予定でしたが、これです。いかにも私らしい展開です。


なんとかWiMAXを使えるようにし、食卓に行くと父はまだ食事中でした。ところがトイレに行って戻ってきたらもうテレビを見に行こうとしています。逃げようとしているのです。その背中に私は「行っちゃうの?」と声をかけました。そして「べつに責めるわけじゃない。一緒にいて欲しいだけなんだ」と説得し、母も食卓に同席して三人でちぐはぐな会話が始まりました。途中、父は何度も席を離れ、その度に「ああ、逃げちゃうんだ…」と落胆させられましたが、意外にもすぐ戻ってきてちぐはぐな会話を続けました。でも最後は「ちょっと横になる」と言い残して父は行ってしまいました。プライドが高いくせに小心者なので、きっと現実に立ち向かう恐怖心に勝てなかったんでしょう…。


時間がどんどん過ぎていきます。ぬいぐるみを抱きしめ、自室の部屋の写真を撮りました。もう帰ってこられないかもしれません。趣味で買い集めたいろんなすてきな物も、今はお別れです。本当は身辺整理しておきたかったんですけどね…あらゆる展開があまりにも急すぎます…。自室には鍵をつけてありますが、万が一のため鍵はかけず開けたままにしてあります(両親にもそう言ってあります。見たくない物もあるだろうけど、そこは人間だから許して欲しいとも言ってあります)。


玄関を出ると、父が私と母の並んだ写真を撮ってくれました。私は自分の自転車と、家を撮りました。絶対戻ってきたいですが、本当にこれからどうなるか…。父の運転で車は出発しました。ある場所で「二人と顔を合わせたくないから、外出する時は二人が寝静まるまでこの辺を何百回何千回とうろうろした」と打ち明けると「もうそんな生活しなくていいからね」と母が言ってくれました。病院の立体駐車場で「そういえば運転してみたかったな」と言うと「帰ってきたら運転すればいいよ」とも言ってくれました。


いよいよ入院です。名目上は「検査入院」ですが、退院日は未定です。少なくとも4月中は帰れないと思っています…。以下テキストファイルの記録より引用再編。

胃痛(?)や腹痛や血便が強く腸重積の症状が重くなったと医師に伝えるが、発熱や吐き気はないため、腫瘍の検査結果が出るまでは経過を見ると言う診断(こののち手術先行へ方針が変更される)。止血剤は出る模様。血液内科の医師と話す。びまん性大細胞型B細胞リンパ腫の可能性がある(まだあいまいな状態ではあるが、医師は9割方そうだと言う)。中から高悪性度、抗癌剤が効くタイプ、進行は月単位、薬が合えば治る人もいる、抗癌剤治療中は免疫力が落ちる。腸重積は除去する必要がある。腫瘍を取ってそこから検査した方が確実に分かる(内視鏡で取った組織はとても小さかった)。大きな腫れは取るが、近辺のリンパ腫は残して抗癌剤治療する。転移の有無を調べるガリウムシンチ検査と、骨髄検査(抗癌剤治療の直前)をする予定。現時点でのステージは「II」。血便合計13回。

血液内科があること自体わりと珍しいようですが、この病院には医師が一人しかおらず、不安を感じているのも確かです。近隣には大学病院やがんセンターもあるのでそういう選択肢も…と思うのですが私の場合、腸の手術とその回復を待つ時間が必要なはずなので、セカンドオピニオンや転院を実行する時間的余裕はないかも、と思っています。信頼できる医師ならいいんですが…。


4月1日
便が出なくなり、出血の有無が分からなくなりました。おそらく血は止まったんだと思う…。消灯21:30なので一応寝ますが、朝4時に目が覚めてもう眠れません。それからはスマートフォンで調べ物をしていました。その頃からまた、へその辺りから上に向かって突き上げられるような腹痛が始まり、痛くて痛くて昼過ぎまで何もできませんでした。痛み度合い8/10。この日は胃カメラの検査日でしたが、レントゲンの結果「腸にガスが溜まっている」ということが分かって中止になりました。また、これに加えて腸の手術が近いということもあり、食事が止まって点滴生活になってしまいました…。


朝の検温で体温が36.9度と妙に高く、まずいと思いました。びまん性大細胞型B細胞リンパ腫は発熱が出るとB症状といって予後が悪いのです(この発熱はたぶん38度クラスの高温を差す)。体温計があった方がいいかもしれないと思い、看護師さんに借りてちょくちょく計っています。この日は37.2度が最高値でした。べつに風邪をひいてるわけでもないので怖いです…。このことは血液内科の医師には看護士さん経由で伝えられる予定です。他もろもろの質問も血液内科の医師に伝えられる予定…。


午後になって両親が来ましたが、やはり言葉は通じても話は通じない二人なので、こちらの意図や気持ちを分かってもらえずとてもつらい思いをしました。二人には悪性リンパ腫セカンドオピニオンの知識をつけておいて欲しいと頼んであるのですが「セカンドオピニオンではなくこの病院の先生に頼めばいいんじゃないの?」という考えから抜けられないのです。もちろんそれがベストなのは分かっていますが、もしベストでなかった場合、腸の手術のこともあり、そこからセカンドオピニオンを勉強していては時間が経ちすぎてしまうのです。だから平行していろいろな準備、というか心構えだけでもしておいて欲しいだけなんですが…。


またこの日はWindowsスマートフォンを無線通信で接続できないかなと悪戦苦闘しました。病状を二つの機器のテキストファイルに書いているので、同期ができると便利なのです、が…とてつもなく大変だった…。昼から夜までかかって結局、Windows無線LANルーター化することで決着しました。


2日
睡眠時間は合計で5時間くらい。1日から2日にかけての夜中にふと「いつ、どう死ぬかではなく、どう生きるかが大事で、ちゃんと生きた果ての死なら、それは仕方ないことなんじゃないか」という心境になりました。


入院してから看護師さんに「お腹が痛い」と訴えてはいたんですが、今朝の看護師さんに「お腹の痛みで眠れない」と言ったところやっとそれが響いたらしく「痛くなったら言ってください、先生に痛み止めを出してもらいます」という話になりました。消化器内科の主治医にも胃が痛い胃が痛いと繰り返し言ってたんですけどね…この辺のさじ加減は難しいです…。


ガリウムシンチ検査の注射をしました。腫瘍に集まるクエン酸ガリウムを体内に散らばせて、三日後に撮影し転移の有無を調べるのです。本当はもっと精度の高いPET検査というのがあるんですけどね…まだ最新技術でどこでも受けられる検査じゃない、のかな。よく分からない…血液内科の医師には一応「どうしてPETではなくガリウムシンチなの?」と、看護師さん経由で質問は投げてあります。


手術担当の外科医師が来て少し話をしました。明日、家族同席で詳しい話がされる予定です。午後、両親が来て話をしました。がん相談室で聞いた高額療養費制度の申請を昨日して、証明書を受け取ってくれていました。少なくとも母の方は、自分が子供とうまくコミュニケーションが取れないことをずっと気にしていたそうなので、今日は反省をしたのか二人とやや話が合って心がなごみました。